生活

見通しが立って、生活が整った。四月から新たな環境で暮らしていくことになって、日々することがそれまでとは大きく入れ替わった。二週間ほど経って、平日の過ごし方がなんとなくわかってきた。このまま八月までは同じことを繰り返していけばいい。八月からは、少しだけ環境がまた変わっていくだろうが、今日の地続きにある九月だから、大して怯えてはいない。SNSで見る有象無象の創作論とか、身内同士の褒め合いとか、嫌ってるものが沢山あって、しかし、私は創作という制度の中で彼らよりも下に位置しているから、そんな自分を見て情けなくなる。鑑賞者が創作者に比べて劣っているとか、そういうことが言いたいのではないし、鑑賞も創作と同等の技能だと思うから、本心から、そんなことを思っているわけではない。しかし、私は何かを作りたくて、それに憧れているから、私の内部では序列がある。私的な階位にひざまづいて同時代のクリエイターと称される人間に牙を向いている。圧倒的な何かに出会いたいのに、一つ一つの出会いを大切にできない。圧倒的な何かは、私の内部で起こる事象だから、私がその反応の一つの原因とならなければいけないのに。できなかったことと、できたことがあって、本当はできなかったことを振り返って、反省して、次に繋げなければいけないのだろうけど、疲れてしまった。日々に疲れたわけではなく、できなかったことを何度も振り返って、解決策を提示してことごとく失敗して、幾度もそれを繰り返して憂鬱な気分に肩まで使っている時、ふと、悩んでいたものの原因が急に消え去って、あれだけ悩んでいたことはもう覚えていない。その循環が悩みの種を葬ってくれたと解釈することもできるし、どうせ真相はわからないのだから、そう思っていた方が気が楽ではあるが、私は人に同情されるくらい苦しみたいので、全て無駄だったのだと叫んでみる。したいことがない。小説も、詩も、全く読みたいと思えない。今まで読んだ小説は、計150冊くらいだろうか。100冊もあるか? 小説を書くために読むべき量に追いついていない。読まなければいけないとは思っているが、面白くないのだから、仕方がない。なんで面白くもないし好きでもない小説や詩を書こうと思ったのかというと、書けそうだったから。私が何かを成すには、これくらいしかできそうになかったから。幼少期の偏愛がそのまま何かにつながっている人間がいて、今の時代、彼らは溢れんばかりの賞賛を浴びている。これを詩や小説にできれば良かったのだろうが、できなかった。伝えたいことが先行しすぎて、虚構を生み出すことができなかった。こうした私の心情は、このような雑文にしか書けなかった。一人、日記を書け続けるほどの勇気もなく、肥大した妄想が空間を圧迫している。私小説も書けそうにない。初めから虚構だと宣言するから書けるのであって、なまじ本当のことが混ざっていると言ってしまったら、私は詐欺師になる。再三言っておかなければならないのは、小倉俊太朗は実在はするが人間というより演技空間であって、全てを真に受ける必要はないし、そうしてほしくもない。いずれ、この文章群でサブスクを作ってお金を稼ぎたい。月額500円がいいだろうか。もう少し高くしてもいいのだろうか。月に690円くらい欲しい。何人が買ってくれるだろうか。そんなに多くの人間に買ってもらわなくても大丈夫なのだけど。規模が大きくなれば、この内容を別の場所に勝手にあげる人間も参入してくるだろうし、私自身を取り巻く人間の数はそこまで大きくあってほしくない。私自身に大きな感情を向けないで欲しい。現実で関わる人間と、画面上のテキストは違う。有料にするのは、お金が欲しいのもあるし、加えて、閉鎖空間が欲しいというのもある。もちろん、人に公開している以上、演技性を完全に取り除くことはできないのだけど、それは私的な日記も同じことだ。それは程度の問題であって、完全に演技を取り除こうとして残るものは何もない。何も考えずに生きていける自分が怖くて、考え続けろ! と叫ぶ強迫観念に襲われている。だから、今流行っている自分界隈の読書を礼賛する文化があまり好きではなく、特に反論する理論も持たないのでこれ以上に何か言うこともできない。学問の世界が全てではないが、学問の世界に自ら足を踏み込んで、「俺は本を読んでいない!」と大袖を振って闊歩するのは狂気である。自らその制度の中に足を踏み入れているのだから、そこに従うのが道理であって、私は本当に無知なので、こんな当たり前のところから始めなければいけない。何かとんでもなく素晴らしいものが欲しいけど、そういったものを得る人間は幼少期からずっと何かをし続けていた人なのだろうし、小さい頃に読んだ伝記漫画では、各本の主人公は何かしらの情熱を持っていた。無気力な偉人などいるのだろうか。いたらいいと思うけど、見つけることはできていなくて、しばらく無気力な時間があって、これからもその時間を取り除くことができない私は、何かになることはできないのだろうと思うけど、それは頭の中で考えたことであって、私は想像以上に現実を見れないから、未だに信じ続けることができている。この同時代に何か素晴らしいものを手にしそうな人はいるのだろうか。他人を正確にみることができない。全て私しかいない空間に生きているから、他人との距離を測ることができない。どんなにすごい人を見ても、頭の中にあるとんでもなく素晴らしいものと比較して、大したことないなって見下す。自分の無知を認めれない。分かったようなことを言って、何も理解していない。その場しのぎで生きいて、おそらく私はかなり器用な人間だから、これからもそうして生きていくことができるのだと思う。しかし、それが嫌だった。私の持っている特性は、私が欲しいものとは対極に位置するもので、そのことがとてつもなく悲しいのだけど、死にたくないし、まだ信じることができているから、このまま夢を見続けたい。飲みたいものがあって、食べたいものがあって、箸を手に取った瞬間からそれらは全て消える。自炊が楽だ。栄養をきちんと摂ることができるし、作れる料理は限られているから、食材に迷うことはない。「食」は私が一度考えなければならないことの一つで、それは生きることの根幹にあって、私は常に死にたくないと思っているのだけど、そのくせ「食」を楽しむことができない。「食」に興味がないわけではなくて、たまにアイスを買ったりしているのだけど、アイスを手に取った瞬間から、なんでアイスを買いたいって思ったのだろうか、と疑問が浮かぶ。アイスもジュースも菓子パンも本当は食べたくないのに、買わないと気が済まなくなって、せっかく買うなら豪勢に、と数百円するそれを買って、YouTubeを見ながら味もわからず消費する。今も、何か飲みたい気がしてならないけど、何を飲みたいのかわからない。何かとんでもなく美味しいものがある気がするが、お金がかかる以上、そこまで冒険する気にはならなくて、適当に飲んだことがあるものを手に取って、飲む。ゲームとかYouTubeだってそうなのだろう。別にそれらを求めているわけではない(ゲームは少し楽しいかもしれないけど)のに、適当な動画を見て、動画を見る前にコメント欄を見て、飛ばしながら途切れ途切れの音声を拾って、数十秒で数十分の動画を見た気になる。家長むぎが、朝起きてから2時間はSNSを触らないようにしている、と言っていて、それは本当に良い習慣だから真似したいと思って、今日は1時間は触らなかったが、1時間後に1時間YouTubeを見てしまった。「YouTubeを見た」というのは比喩表現でもなんでもなくて、私が見ているのは個別の動画でなかなく、おすすめ欄、コメント、音声、サムネが構成する「YouTube」という場全体である。そこから得るものは何かあったか。振り返るたび虚しい気持ちになるが、こんな文章は、それこそSNSで100万回と見た。欠乏装置としてのSNSが憎く、それだけ金稼いでんだったら、消費者の幸福も目指してくれ、と思う。ずっと自分たちの利益ばっかり追い求めていて、でも彼らに刃向かう勇気もない。SNSで見た色々なものに、なんでこれにここまで熱中できるんだって思うけど、私がお熱なのは創作でも鑑賞でもなく消費で、一番低次なものに熱狂している。私の感情を知りたい。