世界99の上巻を途中まで読んで、これの批評を書くことを決め、実際に書いていたが、来週から学校が本格的に始まってしまうから、書くのをやめた。私は勉強しなくてはならない。それは、私の物理、数学に対する理解が乏しいからである。私は院に行くことを決めている。留年した時に、この道は私の進むべき道ではないと、別の道を歩む選択肢もあったが、私は思考を放棄した。何も考えたくなくて、思考を放棄する手段はいくつもあった。今では、徹底した思考は病に似ていると思っていて、必ずしも考えることは正義ではないのだとの考えに至ったが、私に美点があるならば、それは考えることと、行動が伴っているわけではないが、誠実であろうとするところであるから、個人的に思考を放棄することはない。私は将来、やはり文芸に道に進みたい。理想の暮らしとして、様々なところに出かけて、ゆったりと散歩がしたい。ただ葉が風に揺られるのを眺めたい。その暮らしを実現するためには、自由業に就かなければいけない。穏やかな暮らしを望むと同時に、私は人類規模の栄光も、心の底から欲しいと願っている。それらを同時に実現するためには、とにかく、現在私に配られているカードの中で戦わなければならず、私に配られたカードのうち使えそうなものに思考があって、文芸の道に進もうとしている私が理系の、それも工学部に所属していることは、何か利点になるのではないか、と思っている。現在の私は、ただ工学部に所属しているだけであって、理系的素養が身についているわけではない。もしかすると、本当は文芸の道一本に絞った方がいいのかもしれなくて、全てを捨てなければ私が望んでいるものを得られないのかもしれない。私の思考の癖として、全くの妄想から出発してしまうから、積み上がったものが頭のてっぺんから足先まで、全て虚構になってしまう。そのくせ、その虚構を絶対的な真実だと思い込み(同時に疑ってはいるけれど)、妄想に怯えて六畳の部屋に閉じこもる。とにかく、現在の私に必要なのは、ビジネスマン的な行動力である。もしかすると私が読まなければいけないのは、哲学書ではなくビジネス書なのではないか。全てが欲しい。人文書を読んでいると、経済的な営みを軽視してしまう傾向にあるが、そもそも、それを軽視するほど人文的素養が積み上がっているわけではないし、ビジネスマンの方が私より断然優秀で社会にとって益をなしている。これまで私が生産してきたものは、果たして何があっただろうか。バイト、という慎ましい社会奉仕の機会も、私は思索の場とみなしてロクに売り上げに貢献していない。ただレジに立っているだけでいいのだ、と言われればそれまでだが、売上に本気で貢献しようと思っているのなら、客が来ない間は陳列された商品の整理を行ったりすることができる。私は社会の役に立ちたいと思っていて、それは紛れもなく本心ではあるのだけど、同時に、理想的な、社会に役立つ方法があって、できもしないくせしてそれに固執している。しかし、それが私の欲求なのであって、それは社会に損害を与えているとまでは言わないだろう。私は、どこかで諦めなければいけないのだろうし、そのために、工学部の院へ進む。
世界99の批評を書こうと思ったが、今はやめようと思っている。それは、世界99を読み終わったとして、ここに書くことは現在の日本に存在するリベラルに対する批判となる。リベラルな思想そのものではなく、行きすぎたリベラルというか。それに対して批判するためには、私はその周辺の知識に乏しいので、かなりの理論武装が必要であって、そのための時間がない。私は、急ぎすぎている。全ての物事があと半年で達成できると妄信している。まず、取り払うべきはその空想である。まず、この半年の目標として、研究できる程度の、つまり社会に貢献できる程度の学問の理解を進めることと、何かしらの詩の賞を受賞すること。これらを目標にする。詩の賞は、正確に言えば来年の3月に発表されるのだけど、対象となる詩は今年投稿されたものなので、今年の目標とした。私は全てを急ぎすぎている。一発逆転の手段があると勘違いしている。私にできることは、今この瞬間にしかなく、それはたかだか一分に満たない。それを繰り返すことでしか私は前に進めないし、そもそも私の持っていた長所は、唯一の長所はそれだったはずである。世界99の批評も、しばらく時間が経ったら見向きもされないかもしれないが、批評とか著作物に対しては誠実でなければならない。生半可なものをお出ししたところで、それは無意味である。私は人類規模の話がしたくて、芸術とか文学がしたい。もしかしたら私の書いたものが1000年残るかもしれなくて、それを生きる希望としたい。死にたくない。本当に死にたくない。失明するかもしれないといつも怖くなる。背中に違和感があって、脳の血管が破裂するかもしれないと怯えている。だから、何かを失う前に! と焦って結果をすぐに求めようとしてしまう。スティーブ・ジョブズは今日が人生最後の日だったら何をするかを考える、と言っていたが、そんなことを考えていたら長期目標に向かって生きることなんてない。彼は格言を残したかっただけにすぎない。死の恐怖に駆られてできることは、何もない。ただ死に怯えるだけで精一杯で、せめて病院へ行くことしかできない。ふざけんな。なんか睡眠時間を削ることを奨励する人とか、爛れた食生活と運動不足による不健康を自虐的に自慢するクリエイター共に怒りが湧く。自分が死なないと思っていて、そんな生活をしても体に害が出ていないからそんなことができるのだ。クソが。こっちは健康にいくら気を使っても、死ぬのが怖くて、何かしらの医者に常にかかっている状態だというのに。そりゃ、この恐怖が完全に妄想だってことはわかっているけど、理屈じゃもうどうにもできない。そんな彼らがクリエイターとして称賛されているのを見て、自分が本当に情けなくなる。しかし、そんな末端を批判しても何もない。批判したいから批判するのは、絶対に良くないことだ。良くないから批判しなければいけなくて、私にはまだその価値基準が定まっていない。私は、もっと本を読んで考えなければいけない! 今、何かを考えている時だけ、何か救われるような気がする。ずっとひたすら本を読んで何かを考えていたら、時たま何も考えたくなくなって、そのとき生まれるのが詩だと、そう信じている。しかし、弱者を気取って他者の加害性を糾弾するのは、絶対に良くない。だから、さっきの私の体(というか精神だと思うが)の脆弱な部分を前面に押し出すのは、今の時代では特にやめた方がいいだろう。それこそ、私が批判したかったものなのだから。私は強者である。身体的なことで言えば、私はフルマラソンを2回走破した。これだけで、一定の身体的強度があることは示せるだろう。それに、家庭の環境もとても良くしてもらったし、諸々の点で私は強者にいる。これも私がこれからの人生で背負わなければいけないのだろうが、私は強者であって、かつ、個人的な幸福を目指しているということ、これをきちんと隠さずに発信したい。私の辛かった体験というのは、基本的に私が原因となって生まれたものであって、私が何かしら失敗したのは、全て私が原因だった。悲しいかな。成功体験は環境などに還元されて、失敗は私に収束する。私由来の成功体験が欲しいけれど、そんなものできないのかもしれない。しかし、そう信じるだけは無料だし、信じずに生きていくなんてできるだろうか? 真理、事実よりも、まず生きることを優先する。
哲学入門の本文を読み終えた。解説はまた後日読もうと思っている。来週月曜に研究室見学会があり、その次の週に配属先を決定する。研究室見学会の日から院試勉強を始めたいので、それまでに今積み上がっている本を読み切りたい。読み切るのは難しそうだが、かなりの量を減らすことはできると思う。すでに、読まないことが確定している本はいくつかあって、それらを返せば残り5冊程度になるのではないか。変にたくさん借りてしまって、読まずに返すと自尊心が減るので、これからは院試の勉強もあるから、むやみやたらと借りつのは控える。哲学に対する興味はぼんやりとしたもので、明確な軸として存在しているわけではない。哲学が可能性を示すものであって、無限に拡大することを目的とするならば、今手に負える代物ではないような気がする。論理哲学論考は面白いと思っていたが、哲学入門の最後に、仮に哲学が「私」が認識可能なもののに取り扱うならば、それは停滞を意味するから、哲学の醍醐味の大部分を失ってしまう、というのは納得した。哲学は、様々なものに対して問いを立て可能性を探求することに意味があるのだから、それを失うわけにはいかない。真偽の項をもう少し見たかった。「信じる」という行為(言葉?)が、いくつかの項を関連づけるとして、そこから真偽の意味を探ろうとするところが面白かった。私が知りたかったのは、認識論ではなかったのかもしれない。世界の実在に対して疑いたいとかは思えないし、私の存在に対して問いは持っているが、それは、私とは何なのか、という私の存在を前提としたものであって、私の内部に対する問いである。また、外部に対しても、私は無批判的にその存在を信じている。私が問いとして持っているのは、私と世界の関係というより、美とか、価値とか、善とは何かといった、生きることに直結する事柄だった。哲学入門の最後に、ラッセルがいくつかおすすめの本をあげていた。これらを少しずつ読んでいくとともに、人物で哲学を学ぼうとするのは、今はしなくていい気がする。テーマ別に学んでいきたい。現在に私の問いは、詩とは何か、小説とは何か、言葉とは何か、論理とは何か、である。これら四つの問いにまずは向かっていきたい。
AIについて。AIは著しくコストを下げるツールであって、根本的な思想の変化などは起きないと思う。ビジネスの上での変化は大きい。なぜなら、コストを下げることはビジネスの本題だから、AIはビジネスに直接影響を与えるだろう。私が危惧しているのは、クリエイターと呼ばれる人たちが、AIを批判し、ファンがそれに追随して、AIを使用すること自体が悪となるような風潮が形成されることである。AIが、様々な作品を取り込んでいることに対して、それは盗用にあたるのではないか(法的にではなく、倫理的な問題だと思うが)という議論は可能だけれど、もうAI以前に戻ることはできないのだし、どのようにAIを使用するかにシフトしなければいけないだろう。AIを使うことが悪みたいな風潮が形成されていって、その影響で様々なクリエイターがAIを使えなくて、軒並み職を失うみたいなことになってほしくない。