動機はともかくとして、書いている詩を完成させたい。数ヶ月前に、これはいずれとんでもないものになるに違いないと思った詩があって、それを推敲し続けているのだけど、未だ完成しない。今見返してみると、かなり稚拙で、現状の詩を提出したところで何にも掲載されないだろうと思う。今推敲している詩は4つあって、すぐに提出できそうなのは髭と蛙を殴る少年の二遍。この二つはかなり気に入っているから、提出して掲載されなかったら、勝手に公開しようと思っている。今までも何度か勝手に公開したものがあったのだけど、時が経って見返してみると、なんでこんなものに執着していたんだ、って思うものばかりで、全て消してしまった。掲載された詩に関しても、講評で褒めてもらえたはいいが、私としてはそこまで気に入っていない。作品の質というのは、作者をどれくらい超えることができるかにかかっていると思っている。だから、見返してみて、私がその良さがわからないのならば、私以上のものが書けたことの一つの証左になっているので、喜ぼうと思う。そうはいっても、頭のなかにある理想の詩があって、それを書いて、世に認められたい。何か、という詩は私の理想であって、数ヶ月前から推敲し続けている。今日見返してみたら、そこまでいいものではなかった。ただ、この先に何かとんでもなく素晴らしいものがあるのではないか、と思わずにはいられなくて、ちまちま書き換え、付け足している。このペースで詩を書けば、月に2作くらいが限度だろうか。本当は、今年に入ってから毎月、現代詩人会、ユリイカ、現代詩手帖の3媒体に詩を投稿するつもりだった。今年に入ってから投稿した詩は計1作であって、今投稿できそうなのは2作しかない。本当は、今年詩の賞をとりたかったけれど、無理かもしれない。宮沢賢治の良さがわからない。萩原朔太郎の良さがわからない。いずれわかるようになるのだろうか。昔に読んだ、ずっと好きだと思っていた漫画があって、最近Kindleで購入して読んだのだけど、大した興奮が得られなかった。本当に面白い漫画ってそう少ないのかもしれない。ネットで面白い、良いと紹介されている漫画とか映画を見てみるのだけど、そんなに面白くなくて、でも世の中はそれを評価していて、疎外感を感じる。小学生の時にハマったワンピースの面白さが、身体に染み付いて抜けない。私の言う面白いは、あの時読んだワンピースの面白さであって、あれ以上の興奮を感じることができない。

面白いと言われているものがそんなに面白くない時、そんな体験が続いた時、未来に対して薄暗い気持ちを持つ。特に、漫画を読んでいて、最初はめちゃくちゃ面白くて次々に購入していくのだけど、段々失速していって熱が冷める時、すごく悲しい気持ちになる。最近はそんなのばっかりだ。新しいものに手を出してしまうからいけないんだろうな、と思って、同じものを繰り返し読むことにした。本当に面白いと思うもの、ずっとずっと好きなものを繰り返し読んで、向き合っていきたいと思った。語彙が足りない。教養がない。早く全てを知りたい。

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ルーツ

何かしら公に発信しようとする時、自身のルーツを示すことはとても大事なことだ。言葉で表せることは存外少なくて、しかし、今は全ての言葉が文脈から切り離され均一化されている。全ての言葉がそのまま受け取られてしまって、言葉の裏にある意味は無視されている。一日に触れる言葉の数が異常に多いから、言葉の背後にある意味なんて探っている暇などないのだと思う。もし、豊かな詩、小説を読む体験を広めようとするなら、まずは、読者が一日に触れる言葉の数を制限させなければいけなくて、そのためには、SNSから距離を取らせなければならない。いずれ、私はそういった活動をするのだと思うけれど、その時は、SNSとの向き合い方を考えなければいけないな。しかし、その頃には、人類はSNSとは別の形で言葉に触れているのかもしれない。たまに、AIが文章を均一化している、なんて言説を見かけるけれど、AIが登場する以前からそうだったし、AIが文芸を脅かすなんていう言説も見かけるけれど、AI登場以前に、どれだけの傑作が生まれたのか、と思っている。その点については、これから現代の小説を意識的に読んでみて、判断しようと思う。仮にAIがさらに発展を遂げたところで、私は詩を、小説を書きたいのであって、だからといって何か変わるわけではない。現在、私は学習の時にAIを使用している。本の中の行間を埋めるためにAIを活用している。使いすぎても良くないので、問題演習などでは一度自身で考えてから、答え合わせや別解を知るためにAIを活用している。AIの議論で退屈なのは、AIが今後世界をどう変えるのか、という話しかされないことだ。そんな御神託みたいな話がしたいわけではなくて、今後人類はどんな社会を目指すべきか、という人間が主体の話をしたいのだけど、あんまり語っている人は少ない。AIはコスト削減に大きな影響力を持つから、ビジネスでは確かに大騒ぎになるのはわかるけれど、学問や創作の範囲で、ビジネスほどの騒ぎを起こしている人を見かけても、あまり関心が湧かない。学問や創作の範囲でコストが問題になることは、確かに部分的に存在するけれど、全体の話ではないし、コストとは別次元のものなのではなかったか。そんな議論は、AIの進化に対して悠長すぎるだろうか。AIについては、これから真面目に考えていきたい。最近、科学哲学という分野があるのを知ったから、それもみていきたいし、シャノンも学びたい。学びたいことが多い。ようやく、何かを学ぶのが楽しくなってきた。そんな自分が発見できて、本当に嬉しい。

ルーツの話をし始めるには、素直に時系列順に書いていったほうがいいと思うが、幼少期は記憶が曖昧なのと、仮に幼少期から始めてしまったら、現在の状態に向かうように一筋の物語を描いてしまって、それ以外が削ぎ落とされそうなので、高校の話からする。ルーツの話だから、現在に繋がるように一筋の物語を描いても良かったのだが、なんとなく気持ちが悪い。自覚的に嘘をつくのはなるべくしたくない。無意識が何かわからないけれど、こうして公に文章を書くことで、私は無自覚に嘘をつくことができる(念のために言っておくが、これは私だけの能力ではない。人類一般に備わっているもので、それは嘘というよりも一つのペルソナであって、それも含めて本当の自分なのだ)。嘘をついたことに気づかないで、呑気に文章を書いていたい。たまに本当のことを言うから、それは読んだ人間が判断すればいいことだ。高校は関東の公立高校へ行った。公立高校ではあるけれど、私立の対極に置かれた公立ではなく、関東の、それも都会に近接したところにある進学校だった。そこに通っている人は、全員がそれなりに勉強した人たちで、私も中学の頃はかなり勉強した。高校に入ってすぐ、勉強がつまらなくなった。中学では、途中から通う塾の教室を変えたのだけど、そこが本当に楽しくて、右肩上がりに成績が伸びた。どこから聞いたのか覚えていないけど、高校に入学する時、このくらいの成績だったら高校では30位以内取れるという言葉が頭にあった。しかし、高校で始めて受けた(2回目だったか)テストでの順位は確か70位くらいだったと思う。別に悪い順位ではなかったのだけど、私は本当に恥ずかしいことに、もっといけるものだと思っていた。楽勝なのだと思っていた。後々に発覚することだけど、私は中途半端な成功体験と、事実から目を背け続けた経験によって、「効率」というものを私の美徳だと勘違いしてしまった。この自己像は今も払拭できていない。自身の過去を振り返って、頑張れなかったなと思う経験がいくつか存在するのだけど、そうした経験に出会った時、私はそんな自分を恥じて、自信を変えたいと思うと同時に、しかし、それでもなんとかなってきたではないか、と強烈な自負心を抱いてしまう。過去を振り返る時、この両極でいつも揺れている。少し前に、努力をするくらいなら、同情されるくらい酷い目に遭いたい、と本気で思っていた時期があって、それでは何もならないから、現在、私は、過去を全て見ないことによって、この葛藤から逃れ、勉強を頑張っている。大学2回生のコース長面談の時、当時のコース長から「君たちは、その結果が自分の誇るべきところだと思っているけど、それは違う。頑張ることが君たちの美徳であって、それを手放してはいけないよ」と言われた。今になって、ようやくこの言葉の意味がわかってきた。高校生活を一言で表すと、「無気力」だった。中学校までは、ほとんど家にいることがなかった私だが、高校に入ってから、土日は、家にいることが多くなった。というか、部活を除いてほとんど家にいるようになった。友人と遊ぶことなく家に篭り、しかし勉学に励むわけでもなく、新たな趣味を見つけて没頭するわけでもない私を見て、母はとても心配していた。今まで家にいる姿を見せなかった息子が、急に家に籠るようになったのだから、何かあったのではないか、と思ったのだろう。実際は、何もなかった。本当に、何もなかった。友人はいたし、彼らと話すのは楽しかった。高校を卒業してもたまに会ったりしている。人間関係に悩みはなかった。ただつまらなかった。学校が、生活が、本当につまらなかった。悩みはたったそれだけだった。中学校では、休日に遊ぶ人間と部活の人間が一致していた。だから、部活を終えたらそのまま遊びに行っていた。しかし、高校では、仲良くなった人間は別の部活だった。放課後遊ばなくなった原因はそれだった。

高校に入って初めて、自分の無趣味さを理解した。私はずっと、自分は多趣味な遊び人だと思っていた。小学校は、中学校の時よりも家にいた記憶がないのだけど、家にいたときは、ひたすら漫画を読んでいたり、レゴをしたり、当時流行っていたデュエマのデッキ構築をしていた。そんな経験から、自分は多趣味だと思っていたし、友人からも、よく本(主に漫画)を読んでいる人間だと思われていたが、中学校までは、周りの人間含め、家にいる時間がほとんどなかった。そんな人間の集まりだから、相対的に私が漫画をよく読むように見えたのであって、高校で一気に家にいる時間が増えた私は、その時間を持て余してしまった。そのことを思い知らされたのは、コロナが流行って、緊急事態宣言が発令された時だった。発令された当初、私は素直に喜んだ。学校がつまらなかったからだ。友人と話している時は楽しいが、友人と話すことができるのは授業外の時間だし、友人と話すためには、クソつまらない50分を何度も耐えなければいけない。拷問だった。中学校の時、あれだけ勉強できたのは、勉強が楽しかったのではなくて、塾が楽しかったんだと気づいた。緊急事態宣言が発令され、自宅に閉じこもってすぐ、私を襲ったのは途方も無い退屈だった。私には、すべきことも、したいこともなかった。先ほど、多趣味で遊び人な自己像を否定したが、それは半分誤っている。多趣味なのは本当で、私の興味の範囲は広い。しかし、その興味が続かない。高校生当時、ハマっていたのは音楽、お笑い、小説、スマホゲームだが、緊急事態宣言が発令され、家に篭るようになると、どれも一日で飽きた。ずっと好きだった漫画は、それほどの時間を与えられて読むものではなかった。そもそも、趣味というのは一日まるまる与えられて取り組むものではなくて、一日のほんのわずかな時間、余暇を使ってするものだった。自宅にこもっている時の記憶は、例によってない。人と共に過ごした時間は記憶に残るが、一人でいる時の記憶は、全て消えた。大学に入ってからは、本当の意味で一人になるのだけど、人生で最も記憶の薄い時間が、この大学の4年間だった。私には二種の喪失がある。高校を入学してから現在に至る無気力な喪失と、小学校から続く緩やかな喪失である。後者の喪失は、多数の人が抱く小学生特有の万能感が原因だった。小学校の時から少しずつ色々なものを失っているという感覚と、高校から現在に至るまでの時間を失ったという感覚。この二つが、現在の私を形成する上で重要なものになっている。もちろん、喪失という言葉は、私の生活を極端に表現してしまっている。この期間に得たものも当然あった。無気力だったのはそうだし、満たされた感覚など全くないけど、ここに書かなかったことはたくさんある。願わくば、この文章が誰かの支えにならないことを。私自身経験があるのだけど、辛かった経験を話していた人間が、後に自身の幸福の思い出を話すのを聞いた時、裏切られたという気持ちになって、激しい怒りが湧く。おそらく、この文章を読んだ人間も、私が意図的に語っていないことを後に聞いて、私に裏切られたという気持ちになるのだろう。だから、この文章を拠り所としないでほしい。ここのHPにある言葉は、全て私のためにある。決して、この文章を用いた一連の消費行動を統制しようとするのではない。私自身、そんな働きかけはしたくない。インターネットはもう少し無責任になっていいと思っている。今の時代でそんなこと言うのは難しいし、現実を見れていないけど、私の周辺ではそうであってほしい。私がここで言っているのは、読者という個人に向けてである。もし、あなたがこの文章を見て、私の像を作ってしまったら、おそらく後にあなたは傷つくから、やめてほしい。その怒りが私に向くのが、とても怖い。私は、インターネットで相互交流しようなど全く思わない。一方的で、独善的で、独りよがりな、そんな発信がしたい。だからこれは、ルーツを開示するとか言っているけれど、私のための文章なのであって、この広いインターネット空間に、私のためだけの言葉があって、私のためだけに書かれた言葉があることが、とても嬉しい。公にする以上、読者は想定している。しかし、この場においては、まず何よりも私を優先する。それが嫌なら、読まなくていい。インターネットってそういうものだと思うし、なるべくそうであってほしい。

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隣人

隣人がうるさい。現在は深夜1:30。本当だったら、0時に寝れていたはずだった。ずっと、隣の部屋で何かが鳴っている。壁を引っ掻く音もする。隣人は笑い声がよく響く。ありえないくらいに響く。朝とか昼、夕方の歌声には我慢していたが、もうそろそろ限界がきそう。本当にうるさい。こっちは寝たいんだ、クソが。しかし、一度、私自身友人を家に呼んでいて、うるさくしてしまったことがあるから、強く出ることができない。しかし、隣人はこれで何度目だろうか。数えればよかった。10回は軽く超えているだろうし、いつも本当にうるさい。私が気にしすぎているだけなのかもしれないし、実際、私は音に過敏だから、相性は最悪だ。明日、管理会社に苦情を入れようと思う。もし、それで改善されなかったらどうしようか。何度も苦情を入れるしかない。もしくは、直接言いにいくか。本当にうるさい。本当に、本当に、うるさい。寝させてくれ。本当に、寝させてくれ。頼むから。怒りが湧く。辛い。寝たい。寝たい。目を使いたくないんだ。本当に。なんで気をつかわないんだよ。隣人は、ドアもばたんと強く閉めるから、なんか本当に取り返しのつかない失敗をしてほしい。何かに打ちのめされてそのまま引きこもりになってほしい。一生日の目を見ないでほしい。あぁ。こいつらに負けないように、筋トレをするしかないのだろうな。おそらく、私は舐められている。舐められているから、こんなにうるさくしても大丈夫なのだ、と思われているんだ。本当に勘弁してくれ。笑うな。黙れ。ヘラヘラするな。深夜に出していい声量じゃないだろう。壁が薄い。次引っ越したら壁が厚いところに引っ越したい。本当にうるさい。寝たい。早く明日になってくれ。早く管理会社に苦情を言いたい。しんどい。辛い。

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貧困

私の内部にある言葉は貧しい。他者の詩を、小説を読まなければいけないが、時間が惜しい。数える。ある本を手に取ったら、その本を読むことで失われる時間を数える。最初の50ページは面白く読める。一度熱が冷めて、本を閉じて、再びひらけば、熱は消え去って、読むのが苦痛になる。今、読んでいる本は4冊ほどあって、複数の本を並行して読むのが流儀なのだが、決して理論があるわけではなくて、ただ飽き性なだけだった。創作に関して、今年は詩を頑張りたくて、今年、ユリイカ、現代詩手帖、そして日本現代詩人会に詩を投稿して、どれかで結果を出したいと思っている。今年は学業で院試と卒論があるから、ろくに詩作の時間を取ることはできないのだろうが、できる限り詩を書きたい。私的なことを詩にできないのに加え、私は語彙と文章力が貧困ために描写をすることができない。私は本を読まなければいけなくて、しかし、50ページほどで飽きて投げ出してしまう。この本を読み切るのにかかる時間を想起して辟易とする。正直、何度考えても詩でなければ、小説でなければならない理由はない。しかし、一度そう思い込んでしまって、何度も妄想を繰り返していたかっら、詩や小説を書かなければ、夢から醒めないままで現実を生きることができない。この妄想を終わらせるためには、実際に詩や小説を書くしかない。全力で書いて、それから諦めるしかないのだ。詩を書くとはどういうことか。私的なことは全てここに書ききらないといけない。失う時間と向き合わなければいけない。詩を書くことで、本を読むことで失われる時間を数えてしまったら、結局、今まで通り何もせずに日々が過ぎ去るだけだ。これまでの日々は何にもならなかった。将来、何かにつながるのかもしれないが、そこで「あの日々が今につながったんですね」とか言われたら、私は相手の首を絞め、殺してしまう。現時点で、もちろん私が何もしなかったのが原因なのだけれど、あの辛かった日々は何にもなっていない。未来のことは知らないが、そんな言葉であの日々を無にしようとするなよ、と思う。感情は私だけのものであって、別に他者がどういようと関係ないのだから、相手を絞め殺した私はただの残虐な殺人犯であって、悲劇の主人公ではない。批評と感想と考察は分けなければいけなくて、それは感想がそれだけで完結した閉じられたものだからである。批評の批評たる所以は、その被批評性にあって、誰も自分の批評だけで完成するとは思っていないだろう。何が好きかなんて人によって違うとか、作品の価値は多元的だとか、そんなことはわかりきっていて、その先の話をしているのに。これを何度も説明しなければならない。私は、ロクに批評について考えていないし、批評を読んでいないし、そもそも批評を書いてすらいない。私はここに自分の様々な意見を書きつらなければならない。それは、他者に働きかけるためではなく、自己批判のためである。私は、自分は自己批判精神の塊だと思っている節がある。ある側面ではそうなのかもしれないが、最近、段々と盲目な自己愛が露呈してきている。私が意見として持っていることはここに全て書かなければいけない。将来、この文章が掘り起こされて(私が世に発信しているから当たり前なのだけど)、私の無知さが暴かれるのだろうか。しかし、なるべく私は隠し事をしないようにしなければならない。いくつかのことは既に意図的に隠している。ここは縁起空間であって、だからこそこんな文章を書いている。ここに真実を連ねる、だとか、誠実でいようと思う、と宣言することに罪悪感を覚える。結局、小倉俊太朗はペンネームであって、これは文字列であって、ここは演技空間だから、100%本当のものなどないのに。100%本当ではないからといって、価値が失われるわけではない。{0, 1} で考えすぎている。もっと柔軟に考えたい。

意見を書く。まず教育について。個性を重視した教育を推進しようとしているが、まず何よりも話し合わなければいけないのは、子供に与える国家間と常識についてである。教育の最も大きな効能はこれであって、個性を伸ばす教育を行う前に、常識、国家間の話をしなければいけないはずなのだが、全く議題に登っているようには見えない。また、中学受験の話は公的にすべきものではない。それは富裕層がやればいい話であって、大衆メディアが取り上げるべきものではない。習い事に関しては、私は否定も肯定もしない。それは家庭の方針であって、全世帯を巻き込んで行う話ではないと思っているからだ。今、特に教育については、家庭の問題だろうとされているものが、公の場で真面目に話し合われている。それは親の不安が大いに関係しているのだろうが、まずは親の不安を取り除くことが大切であって、それが全て無視されているように思う。具体的に何をすべきなのかは全くわからなくて、そもそも、教育の最も大きな目的が常識と国家間の形成なのかどうか、国家とは何か、常識とは何か、教育とは何かもわかっていない。こんなことを書いて公開などしたくなかった。大学の必要性についても、結局遊んでいるだけの人間が多いのだから、こんなに数はいらないだろうし、さっさと社会に進出させた方がいいのではないか、とか思うが、どうなのだろうか。もっと書きたいことがあったはずなのに、何も思い浮かばない。何もない。すべきことはたくさんあるのに。なんでなんだろうか。生きるとは何かなんて、そんなことを考えようとも思わない。もう満たされてしまったのだろうか。こんなことを書きたくなかった。何が書きたかったのだろうか。

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世界99

世界99の上巻を途中まで読んで、これの批評を書くことを決め、実際に書いていたが、来週から学校が本格的に始まってしまうから、書くのをやめた。私は勉強しなくてはならない。それは、私の物理、数学に対する理解が乏しいからである。私は院に行くことを決めている。留年した時に、この道は私の進むべき道ではないと、別の道を歩む選択肢もあったが、私は思考を放棄した。何も考えたくなくて、思考を放棄する手段はいくつもあった。今では、徹底した思考は病に似ていると思っていて、必ずしも考えることは正義ではないのだとの考えに至ったが、私に美点があるならば、それは考えることと、行動が伴っているわけではないが、誠実であろうとするところであるから、個人的に思考を放棄することはない。私は将来、やはり文芸に道に進みたい。理想の暮らしとして、様々なところに出かけて、ゆったりと散歩がしたい。ただ葉が風に揺られるのを眺めたい。その暮らしを実現するためには、自由業に就かなければいけない。穏やかな暮らしを望むと同時に、私は人類規模の栄光も、心の底から欲しいと願っている。それらを同時に実現するためには、とにかく、現在私に配られているカードの中で戦わなければならず、私に配られたカードのうち使えそうなものに思考があって、文芸の道に進もうとしている私が理系の、それも工学部に所属していることは、何か利点になるのではないか、と思っている。現在の私は、ただ工学部に所属しているだけであって、理系的素養が身についているわけではない。もしかすると、本当は文芸の道一本に絞った方がいいのかもしれなくて、全てを捨てなければ私が望んでいるものを得られないのかもしれない。私の思考の癖として、全くの妄想から出発してしまうから、積み上がったものが頭のてっぺんから足先まで、全て虚構になってしまう。そのくせ、その虚構を絶対的な真実だと思い込み(同時に疑ってはいるけれど)、妄想に怯えて六畳の部屋に閉じこもる。とにかく、現在の私に必要なのは、ビジネスマン的な行動力である。もしかすると私が読まなければいけないのは、哲学書ではなくビジネス書なのではないか。全てが欲しい。人文書を読んでいると、経済的な営みを軽視してしまう傾向にあるが、そもそも、それを軽視するほど人文的素養が積み上がっているわけではないし、ビジネスマンの方が私より断然優秀で社会にとって益をなしている。これまで私が生産してきたものは、果たして何があっただろうか。バイト、という慎ましい社会奉仕の機会も、私は思索の場とみなしてロクに売り上げに貢献していない。ただレジに立っているだけでいいのだ、と言われればそれまでだが、売上に本気で貢献しようと思っているのなら、客が来ない間は陳列された商品の整理を行ったりすることができる。私は社会の役に立ちたいと思っていて、それは紛れもなく本心ではあるのだけど、同時に、理想的な、社会に役立つ方法があって、できもしないくせしてそれに固執している。しかし、それが私の欲求なのであって、それは社会に損害を与えているとまでは言わないだろう。私は、どこかで諦めなければいけないのだろうし、そのために、工学部の院へ進む。

世界99の批評を書こうと思ったが、今はやめようと思っている。それは、世界99を読み終わったとして、ここに書くことは現在の日本に存在するリベラルに対する批判となる。リベラルな思想そのものではなく、行きすぎたリベラルというか。それに対して批判するためには、私はその周辺の知識に乏しいので、かなりの理論武装が必要であって、そのための時間がない。私は、急ぎすぎている。全ての物事があと半年で達成できると妄信している。まず、取り払うべきはその空想である。まず、この半年の目標として、研究できる程度の、つまり社会に貢献できる程度の学問の理解を進めることと、何かしらの詩の賞を受賞すること。これらを目標にする。詩の賞は、正確に言えば来年の3月に発表されるのだけど、対象となる詩は今年投稿されたものなので、今年の目標とした。私は全てを急ぎすぎている。一発逆転の手段があると勘違いしている。私にできることは、今この瞬間にしかなく、それはたかだか一分に満たない。それを繰り返すことでしか私は前に進めないし、そもそも私の持っていた長所は、唯一の長所はそれだったはずである。世界99の批評も、しばらく時間が経ったら見向きもされないかもしれないが、批評とか著作物に対しては誠実でなければならない。生半可なものをお出ししたところで、それは無意味である。私は人類規模の話がしたくて、芸術とか文学がしたい。もしかしたら私の書いたものが1000年残るかもしれなくて、それを生きる希望としたい。死にたくない。本当に死にたくない。失明するかもしれないといつも怖くなる。背中に違和感があって、脳の血管が破裂するかもしれないと怯えている。だから、何かを失う前に! と焦って結果をすぐに求めようとしてしまう。スティーブ・ジョブズは今日が人生最後の日だったら何をするかを考える、と言っていたが、そんなことを考えていたら長期目標に向かって生きることなんてない。彼は格言を残したかっただけにすぎない。死の恐怖に駆られてできることは、何もない。ただ死に怯えるだけで精一杯で、せめて病院へ行くことしかできない。ふざけんな。なんか睡眠時間を削ることを奨励する人とか、爛れた食生活と運動不足による不健康を自虐的に自慢するクリエイター共に怒りが湧く。自分が死なないと思っていて、そんな生活をしても体に害が出ていないからそんなことができるのだ。クソが。こっちは健康にいくら気を使っても、死ぬのが怖くて、何かしらの医者に常にかかっている状態だというのに。そりゃ、この恐怖が完全に妄想だってことはわかっているけど、理屈じゃもうどうにもできない。そんな彼らがクリエイターとして称賛されているのを見て、自分が本当に情けなくなる。しかし、そんな末端を批判しても何もない。批判したいから批判するのは、絶対に良くないことだ。良くないから批判しなければいけなくて、私にはまだその価値基準が定まっていない。私は、もっと本を読んで考えなければいけない! 今、何かを考えている時だけ、何か救われるような気がする。ずっとひたすら本を読んで何かを考えていたら、時たま何も考えたくなくなって、そのとき生まれるのが詩だと、そう信じている。しかし、弱者を気取って他者の加害性を糾弾するのは、絶対に良くない。だから、さっきの私の体(というか精神だと思うが)の脆弱な部分を前面に押し出すのは、今の時代では特にやめた方がいいだろう。それこそ、私が批判したかったものなのだから。私は強者である。身体的なことで言えば、私はフルマラソンを2回走破した。これだけで、一定の身体的強度があることは示せるだろう。それに、家庭の環境もとても良くしてもらったし、諸々の点で私は強者にいる。これも私がこれからの人生で背負わなければいけないのだろうが、私は強者であって、かつ、個人的な幸福を目指しているということ、これをきちんと隠さずに発信したい。私の辛かった体験というのは、基本的に私が原因となって生まれたものであって、私が何かしら失敗したのは、全て私が原因だった。悲しいかな。成功体験は環境などに還元されて、失敗は私に収束する。私由来の成功体験が欲しいけれど、そんなものできないのかもしれない。しかし、そう信じるだけは無料だし、信じずに生きていくなんてできるだろうか? 真理、事実よりも、まず生きることを優先する。

哲学入門の本文を読み終えた。解説はまた後日読もうと思っている。来週月曜に研究室見学会があり、その次の週に配属先を決定する。研究室見学会の日から院試勉強を始めたいので、それまでに今積み上がっている本を読み切りたい。読み切るのは難しそうだが、かなりの量を減らすことはできると思う。すでに、読まないことが確定している本はいくつかあって、それらを返せば残り5冊程度になるのではないか。変にたくさん借りてしまって、読まずに返すと自尊心が減るので、これからは院試の勉強もあるから、むやみやたらと借りつのは控える。哲学に対する興味はぼんやりとしたもので、明確な軸として存在しているわけではない。哲学が可能性を示すものであって、無限に拡大することを目的とするならば、今手に負える代物ではないような気がする。論理哲学論考は面白いと思っていたが、哲学入門の最後に、仮に哲学が「私」が認識可能なもののに取り扱うならば、それは停滞を意味するから、哲学の醍醐味の大部分を失ってしまう、というのは納得した。哲学は、様々なものに対して問いを立て可能性を探求することに意味があるのだから、それを失うわけにはいかない。真偽の項をもう少し見たかった。「信じる」という行為(言葉?)が、いくつかの項を関連づけるとして、そこから真偽の意味を探ろうとするところが面白かった。私が知りたかったのは、認識論ではなかったのかもしれない。世界の実在に対して疑いたいとかは思えないし、私の存在に対して問いは持っているが、それは、私とは何なのか、という私の存在を前提としたものであって、私の内部に対する問いである。また、外部に対しても、私は無批判的にその存在を信じている。私が問いとして持っているのは、私と世界の関係というより、美とか、価値とか、善とは何かといった、生きることに直結する事柄だった。哲学入門の最後に、ラッセルがいくつかおすすめの本をあげていた。これらを少しずつ読んでいくとともに、人物で哲学を学ぼうとするのは、今はしなくていい気がする。テーマ別に学んでいきたい。現在に私の問いは、詩とは何か、小説とは何か、言葉とは何か、論理とは何か、である。これら四つの問いにまずは向かっていきたい。

AIについて。AIは著しくコストを下げるツールであって、根本的な思想の変化などは起きないと思う。ビジネスの上での変化は大きい。なぜなら、コストを下げることはビジネスの本題だから、AIはビジネスに直接影響を与えるだろう。私が危惧しているのは、クリエイターと呼ばれる人たちが、AIを批判し、ファンがそれに追随して、AIを使用すること自体が悪となるような風潮が形成されることである。AIが、様々な作品を取り込んでいることに対して、それは盗用にあたるのではないか(法的にではなく、倫理的な問題だと思うが)という議論は可能だけれど、もうAI以前に戻ることはできないのだし、どのようにAIを使用するかにシフトしなければいけないだろう。AIを使うことが悪みたいな風潮が形成されていって、その影響で様々なクリエイターがAIを使えなくて、軒並み職を失うみたいなことになってほしくない。

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哲学入門

読んだ本の内容を、文章にまとめて公開するのが億劫だ。今、私が読んでいるのはバートランド・ラッセルの哲学入門。前に図書館で借りて少しだけ読み進めていたが、しばらくそのまま放置していた。明後日に大学のガイダンスが行われ、来週から本格的に新学期が始まるから、今積んでいる本をなるべく読み終えようと思って、今日また読み始めた。内容はかなり面白い。ところどころ疑問があったりするけれど、入門書である以上深くは立ち入れないだろうし、私は哲学の門外漢であるので、このように哲学の基本を一冊にまとめてくれているのはとても嬉しい。この手の(学術書といったら良いのだろうか)本を読み終えた時、本の内容が全く頭に入っていなくて、愕然となることが多かった。私の読みが粗雑なこともあるだろうが、もう一つの原因として、読んだ本の内容をまとめようとしていないことがある。そもそも、何かしらを勉強する時、ノートを取るのは当たり前であって、読んだだけで内容を頭に入れようとするのは、これまでの経験を無視した愚行だ。私は、何かしらに読んだ本の内容をまとめなければならない。決してそれを残す必要はない。まとめることが目的であって、まとめたものはどうしようと構わない。しかし、以前パソコンのメモにまとめようとしたことがあったのだが、続かなかった。他の重要なメモが埋もれてしまうから、記録のメモを残しておくのが嫌で書き終えたら削除していたのだが、結局すぐに削除するのになぜ書いているのだ、と馬鹿馬鹿しく感じて、やめてしまった。文章を残すことは目的にないが、内容をまとめるためには、残さなければならなかった。人は意味を求めるもので、意味はやはり外部にある。私は内部にあと数十年生きていくほどの意味を見つけられなかった。おそらく、まだ出会っていないだけだと思うし、詩や小説がそれになる可能性はかなり高いと踏んでいる。とにかく、そんな理由で、読んだ本の内容を文章にまとめて公開しようと思ったのだが、公開するのに一つ大きな壁が立ち塞がっている。それは他でもない、私の心の問題である。私は、本当に見てくれを気にする人間であり、ここで間違った知識を綴るのが、本当に恥ずかしくて、それを見られるのが心の底から怖い。小説、詩を書く分にはいい。誰も小説家や詩人に学問など期待していない。もちろん、一定の恥ずかしさは感じるが、仮に私の知識、考えが間違っていたからといって、詩や小説に影響を及ぼすことはあまりないだろう。詩や小説は書けるが、学はないのだ、と平凡な判断を下されるだけだ。しかし、私は、大学の院(理系だが)に進もうとしていて、あろうことか、文芸批評をさえ行おうとしてる。理系の学問すら疎かになっている私である。私は学ぶことを拒否し留年した。かれこれ4年ほど大学に所属しているが、果てして私が得た知識はコップ一杯満たせる程度のものなのだろうか? 批評とか院などというアカデミックな道に進もうとしているくせして学がないなんて、とんでもなく恥ずかしいことだ! アカデミックなんて言葉を使ってしまったが、いったいアカデミアがなんなのかすら知らない。流石に知るべきだろうと思って、今、積んでいる本の中には大学とは何か、という本もある。一応、学ぼうとはしている。ささやかな自己批判精神もある。しかし、だからといって何なのだ? 同級生のほとんどはこれから就職するのだ。社会に進出し、何らかの生産を施すのだ。過去を振り返って自分を罰しようとするのは自分の快楽のためだからこれ以上考えることはないが、とにかく、ここに読んだ本の内容を書くのは、ものすっごく嫌。本当に嫌。

一般に哲学と言われているものは西洋のものだけど、読んでいるとかなり人間中心主義的に感じる。また、論理を軸にしているから、0か1かしかなく極論になってしまいがちな印象を受ける。今、CODEという本を読んでいて、パソコンの仕組みを学んでいる最中だったから、{0, 1} で表現する論理が実感につながったような気がして楽しい。この楽しいという実感を大切にしていきたい。認知していないものの存在を認めるところまでは良かったし、記述されているものについても、一番初めは認識があるはずだ、というのも納得できた。それらを論証することはできないが、棄却するよりも自然だからそう考えることにするらしかった。入門書だからそうなっているのだろうか。存在、私、意識、認識、物的存在といったものが哲学の主題であるのは知っていたが、帰納法も同じくらい重要な概念だというのは、思っても見なかったことだった。本では一般原理と書かれていたが、思考法そのものも疑わなければいけないのは、徹底さを追求したら当然行き着くものだった。なるほど。哲学屋は極端な理論家だと思っていたが、もしかすると実験屋の方が近いのかもしれない。まだ三分の一しか読めていないが、その中でも印象に残ったのは、私的空間と物理空間の間に認められる類似について。物的対象が存在するとして、それは一体何なのか、という問いに答えるために、この二つの空間が言及されたのだけど、空間が複数重なっているという考え方は、世界の捉え方として極めて有効だと思った(本書では重なっているとは言ってなかった。ただ二つの空間の存在に言及しただけだった)。パソコンの仕組み、哲学、物理数学を学んでいく中で、集合論を学ばなければという思いが強まっている。八月に院試があるからその勉強を優先させなければならず、集合論をがっつり学ぶ余裕はないが、いつか時間を捻出して学びたい。学びたいと思えるのが嬉しい。ずっと勉強する意欲がなかったから、強い衝動ではないし、今もYouTubeとかXを触ってしまうけれど、わずかでも意欲が湧いたのが嬉しかった。しばらく頑張れなかったから、頑張れなかった期間が長かったから、今度は頑張りたい。

チャールズ・ペゾルドのCODEという本を読んでいる。この文章は、一つ上の分までで一旦保存して、数時間後にまた書き始めた。このような書き方をした文章は他にない。普段は、勢いのまま書いて、推敲もせずに公開している。元々、ここで文章を公開している目的が、日々同じことを繰り返すことを防ぐためであったので、心の底に沈み澱んでいるものを吐き出すことができれば、推敲などはいらなかったし、書きたくなかったら書かなければよかった。しかし、今日の文章は、読んだ本の内容を書くという目的がある。目的がある文章を書くのが苦手だ。つまり、説明することが本当に苦手だ。要は、頭の中で知識が体系化されていないということなのだろうが、知識が整理されずに原始状態のまま体の内部で渦巻いているような感覚がある。知識も不足しているのだけど、それをまとめる工程がもっと不足している。私の内部にある言葉では、全てが足りない。体の内部に色々あるはずなのに、絵も描けないし、音楽も作れないし、だから言葉でしか表せないのだと思っているが、言葉でさえ表すことができない。どれだけ私の語彙が豊かになっても、当然それを完璧に表現することはできないだろうが、行けるところまでは行きたい。本を読むとすぐに疲れてしまう。知識を整理する時間を渋って、すぐに別のものに手を出して、せっかく読んでいた本の内容を忘れてしまう。フィクションはそのまま受け取れば良いので楽だが、学術系の本はそのどれもが新鮮であり、理解するのに相応の時間が必要なため、なかなか読み進めることができず、その過程を楽しめなくて苛立つ。学ぶことを楽しみたいが、何に楽しさを感じるかを自分自身で設計することは困難であって、それは偶発的なものだから、今確かに存在するわずかな学ぶことへの楽しさを大事にしていくしかない。これと向き合えば、もっともっと楽しさが大きく感じられるようになるのだろうか。しばらく頑張れなかったから頑張りたくて、私が頑張りたいのは学問であり、詩であり、小説であり、芸術であり、批評であり、大衆娯楽だ。夢を語るならば、割と本気で思っているが、やはり人類規模の文芸を作りたいし、例えば南海トラフ地震とか、富士山が噴火したときに、何かしらできることがある人間になりたくて、そのできることは大きければ大きいほどいい。私は決して聖人ではなくて、今まで人にしたよくないこともあって、しかし、なるべくこれからの人生は誠実でいたい。

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