無根拠に語る癖を治したい。無根拠に語る癖の最も良くない影響は、学ぶ意欲を削がれることである。無根拠に語ること自体ではなくて、その無批判性を恥じている。私の生活の半分は妄想に埋められている。半分は言いすぎたかもしれないが、いちいち注釈をつけて語るのは面倒だし、そのためにここを演技空間としたはずだった。色々語る前に、まず小倉俊太朗について話さなければいけないのかもしれない。小倉俊太朗はペンネームである。ペンネームは虚構だが、しかし、今こうして文章を書いている人間は実在している。それは小倉俊太朗であり、私である。私の一部分を小倉俊太朗にしたわけではない。小倉俊太朗はフィクショナルな存在であって、最も近い言葉は演技空間である。虚構から出発しなければいけないが、しかし、小倉俊太朗は私にかなり接近している。だから、小倉俊太朗はペンネームだが、実在性を帯びている。それが指し示す意味は存在している。小倉俊太朗は、私が書く文章を一つの場にあげるための装置であって、究極的に言えば見やすさだけの問題なのかもしれない。何かそこに本質的な意味はあるわけではなくて…いや、額縁だって、絵が本質であるかのように思われるが、額縁があることによって、絵は閉じられる。絵が絵として存在するには、その大きさは一つ本質としてあって、額縁はそれを規定している。小倉俊太朗だって、私が書いたものを一つにまとめる働きがあって、それはとても本質的なことなのではないか。そう、こんなふうに、私は無根拠に様々なことを語ってしまう。日々、日記を書いていて、ほとんどのことを忘れてしまっていることに気づく。かなりの部分を妄想で過ごしているから、日々自分の抱いた感情を知らない。感情は全て、私の妄想にあって、それは全くの嘘である。嘘とは、既に発見されている真実に対して行われるもので、決して創造的な行為ではない。嘘をついたところで何にもならない。東浩紀が「好きなものはシェアするものではない。自分の核にあるものだから一人で向き合わなければいけない」的なことを言っていて、妄想の自分が気に入ってそれを妄想上で繰り返し引用している。しかし、それは私の実感ではない。私は好きなものをとことん人に共有するタイプである。今は共有する人すらいないから、あまり言っていないが、昔友人が近くにいた頃は、自分の好きなものを滔々と語っていた。東浩紀のその言葉に同調したのは、それがなんだかかっこいいから、推し活というものに反感を抱いていたから、だった。
実感がない。今私の有している思想のうち、どこまで私の実感なのだろうか。ただ、今まで読んできたもの、聞いたものをパッチワークのようにつぎはぎしているだけで、自分の思想がない。本当の自分などを探しているわけではない。そうではなくて、思想として保持するには、私性が足りない。そもそも存在しているのだろうか? 人に影響されていることを悲しんでいるわけではない。自分という存在は他人によって規定される。他人がいなければ「私」はいとも簡単に崩れ去る。他人の影響を全て排除して本当の自分を探したい、といった倒錯したエゴイズムを持っているわけではない。他人に影響された「私」そのものを発見することができない。私が日記で書くべきは、今ここで文章に書いているような思想ではなくて、日々感じたことを素朴に実直に書くべきなのだ。そうだ、私の感情は日々揺れ動いている。感情がないわけない。ただ、忘れてしまっているだけだ。なぜ忘れるのだろうか。わからない。
私がここに書くべきことはいったいなんなのだろうか。他人に働きかけたいから書き始めた。他人に対して何か残したいから書き始めた。他人に対して書くならば、社会に対して価値にならなければいけないのではなかろうか。それはそこに金銭が発生している場合のみで、金銭が発生していないならそこに価値がなくてもいいのだろうか。しかし、時間は奪っている。時間と金は等価だろう。それは資本主義に毒されているのだろうか。相対性理論で時間と空間は混ざり合うから、時間・空間・金は全て融合して一つの概念になることになる。相対性理論も学びたかった。私は理系ないのに、数学や物理を勉強していなくて、とても恥ずかしい。他人からどう思われるかを気にしてしまう。「私」という存在が他人との相互作用で起こることを知ってから、その恥ずかしさも幾分和らげられた。今文章を書いているのは紛れもなく私であるが、現れているのは小倉俊太朗である。小倉俊太朗はペルソナであって、しかし、ペルソナと言うにはフィクションが過ぎる。私は何かを後世に残したいと思っているが、このままだったら後世に残るのは小倉俊太朗であって、私ではないのではないか。しかし、剥き出しの私を提示して、私は耐えられるのだろうか。剥き出しの私などない。そもそも、言葉は記号であって本体ではない。また無根拠に書いてしまった。私は学ばなければいけない。私はガラス越しに大衆と接したい。インターネット空間は現実ではない。私が現在存在しているのは全てインターネット空間であって、そこでは圧倒的な人数の人間が日々接触している。そこで、記号とは言え、一部とは言え、「私」なるものを提示してしまったら、と思うと怖くなる。小倉俊太朗はフィクションである。私という実在を原因としたフィクションである。だから、小倉俊太朗の中に実在を求めるのは決して間違いではない。私は驚くほど多くの人間と接したくて、だから詩とか小説を書こうとしていて(それは動機の一部だけれど)、そのために小倉俊太朗を用意した。人に言わないことは当然たくさんあって、その不誠実さを和らげるために、こんなものを用意した。小倉俊太朗は極めて消極的な存在である。私は日々の行動を、とても消極的な理由で選択している。私は、不健康になりたくないから、詩とか小説が書けないから、しなかったら恥ずかしいことになるから、走りに出かけ、文章を書き、英語を勉強する。したいことなんてない。違う。強烈なものが一つある。一生かかっても受け止めきれないような栄光、名誉が欲しい。成熟した精神では、そんなものはないとされる。しかし、私はどうやら変な方向に成長したらしく、それは必ず存在するのだと思っていて、しかし、成長はしているから、そこに至る過程など存在しないと、行動を起こす気にもならない。だから、妄想をしている。私の根幹には逃避癖があって、妄想はその典型である。今私を取り巻く責任・義務・期待を全て取っ払いたい。しかし同時に、その先には何もないことを知っている。それらを負うのが生きることだとも。私は本当に死にたくなくて、しかししばらく妄想に逃げていたから、どうしようもない気持ちになってくる。たまに、小学校の頃から詩・小説を書き始めたらどうだったか、と考える。せめて、大学入学した頃から、一心にそれを目指していたら、とどうしようもないことを考える。詩・小説を書き始めたのは、書けそうだったからである。文章を書くことは少し慣れていたから、詩・小説は、数ある逃避先の中でも一番身近だった。詩は実際に、現代詩人会でちょくちょく選ばれていて、最近は何かに到達しそうな感覚があるから、希望はある。しかし、私の詩性は、途方も無い栄光を手に入れることができるほどのものなのだろうか。私が望んでいるものは、努力の領域にないから、もしかするとどうしようもないことなのかもしれない。しかし、そうだ。やるしかない。私が本当に欲しいと思えたものは、結局それしかなかった。そんな動機で芸術やるなんて、聞いたことがない。恥ずかしい。とんでもなく恥ずかしい。なぜこんなに未熟なのだろうか。そもそも、こんなことを雑文で他人に語ろうとすること自体、恥ずべきことなのだ。詩・小説を書きたいのなら、それらで表現すればいいではないか! しかし、書こうとしても書けないのだ。本当に辛かった時期に、辛かったことを詩で表現しようと思っていくつか書いたが、だめだった。詩の質が落ちたわけではない。そもそも、詩を書けなかった。辛い気持ちを表現した詩を、私は書くことができなかった。書くことができなくて、時間が経って、結局、その辛さを私は忘れてしまった。本当に悲しい。日記も当時書いていたものは捨てた。noteも、当時書いていた記事は消去した。この文章もいずれ消すのかもしれない。こんな苦悩を、雑文で見せるような人間なのだ、私は。つまり、私は、天性の芸術家ではないのだ。凡人なのだ。
しかし、どうだ。今まで私の書いた詩で選ばれたものは、基本的に何かの感情を動機にしたものではなく、溢れたものだった。感情を動機にしようとして、ことごとく失敗してきた。だから、日々抱いた感情は、別の手段で履き切るしかない。全て吐ききって、空にならなければいけない。ふとした瞬間に訪れるのを、待たなければいけない。この方向でいいのか不安になるが、しかし、私が求めているものは、決して歩き続けなければ到底辿り着くことはできないものだ。感情を抱き続けて何にもならなかった。私は、自分の感情を詩や小説にすることができなかった! 辛かったのに! 申し訳ないと思っていたのに! 楽しかったのに! 本当に、こんなことをここに書くべきではないのだ。多分。しかし、溢れるのだ。詩にも小説にも、その他あらゆるものにもならぬ感情が。あぁ、この方向で間違っていないといいけれど。私はこんなにも考えている。誰か知ってくれ! しかし、私のことを元から知っている人たちは、その記憶の中の私を更新する必要はない。それも紛れもない私なのだから。私は決してあなたたちの前で演技していない。演じているのは、記号の方だ。現実を疑わないでくれ。そろそろ桜の季節。見に行きたい場所が沢山ある。
今までに選ばれた詩は5作くらいか。たったそれだけのことだが、しかし、私が縋り付くには十分な太さの藁だ。信じていたい。何にもならなかった時間の中で、唯一形に残っているのがそれなんだ。あんなに辛かったのに、たった5作にしかならなかったなんて、そんなのあって良い訳がないだろう。私がこんなにも、書いてすらいない詩や小説の妄想に縋り付いているのは、無を否定したいから。何にもならなかったとか、そんな悲しいこと言わないでほしい。どうしてこの悲しみが、詩や小説にならないのだろうか。もしかしたら、私はもっと別の場所を探索しなければいけないのかもしれない。しかし、そんな気力は残っていない。捨てられるはずもない。繰り返した妄想に囚われている。もっと小説を読まなければいけない。心の底から小説を楽しんでいるのではなくて、小説や詩を書くと決めてから、詩や小説を読んでいるから、この動機は人工物なのだ。こんな作り物で、果たして芸術なんてできるのだろうか。あぁ、何かになって欲しい。何か結果が出て欲しい。そのためには書かなけれないけないのだ。こんな気持ちも、数分後には忘れてXとかYouTubeを見ているのだ。そんなことばっかりだ。本当に。そろそろ大地震とか起きるって言われているのに、私は自分のことばっかりだ。何にもできないよ。何ができるんだろうか。人の役に立ちたいが、その前に私は幸福になりたい。