寂しさ

孤独というタイトルをつけたが、寂しさに変えた。孤独という言葉は、私の実感からかなり離れたものであるように感じた。私がいつも感じているのは、孤独ではなく、寂しさだった。私は一日の大体の時間をインターネットで過ごしている。誰かと繋がりたくて仕方がない。常時接続型社会というのは何年前の言葉なのだろうか。Twitter(今はX)ができて15、6年くらい経ったのかな。私の人生の大半はSNSができた後の社会で、ありとあらゆる情報が身近にある状態で過ごしてきたから、私は既に世界の全てを知っているのだ!なんて勘違いしている。思考が横に滑っていく。私の思考の型はこうなのだろう。ウルフとかジョイスとか、その辺の作家の小説を読んでみたい。彼らは、文章をただ意識が流れるように書き綴っているらしくて、もしかすると、今の私の文章も、彼らの小説と同じものになっているのかもしれない。であれば、私は既に小説を書くことができる、ということだ。嬉しい。しかし、それは創造ではないから、悲しい。

ここに書くべきことを考えている。私は、ここを演技空間だとしていた。「私」と文章の距離を計りかねている。私は決して本当の自分が存在すると信じているような酔狂な人間ではない。私が信じているのは「今私が存在すること」である。もっと言えば「今世界が存在すること」も信じている。しかし、私の存在よりも世界の存在の方が不確かになってしまうのは仕方がない。私の最も強烈な信念のうちの一つは、「現在における私の存在」であり、それと同列にあるのは「世界の存在」「他者の存在」「死にたくないということ」「視覚」である。これの次に「音楽」かな。世界の存在と他者の存在に時間軸は発生していない。彼らは時間とは独立した存在である。私はまだ相対性理論を学んでいないから、時間と空間の関係の話に言及することができない。そうだ、「空間」もまた、私の最も強烈な信念のうちの一つだ。そうなると、相対性理論は学ぶ価値がある。院試の勉強をしながら、余裕があったら齧ってみようか。現在における「私」の存在は疑っていないが、では「私」とは一体なんなのか、と言われれば明確な回答を述べることはできない。今、平野啓一郎の分人主義の本とか、鷲田なんちゃらの私に関する新書とか、それらを借りたり買ってみたりして読んでいる。このように、外部に働きかけようとして文章を書く時、私という問題が現れる。安藤宏の本は面白かった。このHPを演技空間と宣言しようとしたのも、彼の本を読んだからだった。私は、まだ文章と私の関係について考えられていない。ようやくその入り口に立った段階である。演技空間として割り切ってしまえば容易いが、しかし、このHPに書かれていることは、別にフィクションではないし、かといって事実でもない。エッセイとは言いたくない。私はエッセイが好きではない。推し文化に対する反発心。分人主義の本を読んで、私はペルソナの問題を持っていないことに気がついた。私は、現在における私の存在を疑っていない。過去は全て、かつて「今」だった。だから、過去も、同様にして未来も、全て現在として認識できるために、ペルソナの問題は持たない。私にとって「私」とは、キャラクターとか内面の話ではなく、空間を占める物質的な存在に近い。「今」における絶対的な信頼も、「私」という概念が崩れない一つの要因なのだろう。というか、これが最も大きいのではないか。「今」をあまりに信じているから、過去から現在について、私の変化は全て連続的に思える。変わったとは思う。しかし、それは連続的な変化でしかない。急激な変化もある。原因のわからぬ変化もある。しかし、かつて「今」でなかった過去など存在するはずがないと信じているから、全て連続的な変化であって、だから「私」という存在は崩れない。様々な場面で、様々な声色で、表情で話していた自分は、紛れもなく全て「私」だった。案外、私にとって「私」とは、非常に強力な信念だった。

そう思えば、文章も私の一つの形態なのだから、特に考えずに書き綴っていいのではないか。いや、そうは思えない。私はかなり言葉を信じているが、同じくらい疑っている。たまに、並べられた言葉が不意に意味を失って、死体となったような感覚に陥る。何の死体なのかはわからないが、そのとき、世界との関係が絶たれたような気がして、ものすごく恐怖を感じる。かつて生きていたはずだったそれらの、生きている時の姿を思い浮かべることはできない。ただ、正体不明の死体が、夥しい量規則的に並べられている。背後に何らかの意思さえ感じる。当たり前だ、言葉なのだから。意志があるのがいけないのか。現実で私の多面性が発揮される時、それは無意識下で行われる。しかし、文章は違う。私は明確な意思を持って、その文章にしたのだ。それが恥ずかしいのだ。私はその文章を消せたはずである。編集することの欺瞞を思って、無修正(!)で提示しても、結局全てを公開しようとしたという意思があることは否定できない。これは私の垢抜けに対する恥じらいにも通ずるところだ。永遠の思春期だと思っていたが、それだけではないのかもしれない。そこまでして意思を消したいのはどうしてだろうか。例えば、友人と近場を旅行したことがあって、その時私は、ここに行こうとか意思を伝えることはできたし、ためらった覚えはない。むしろ、意見を言わないのは良くないとすら思っている。こと「私」の場合だけ違うのだろうか。分人主義の本を読んでいて、印象に残った箇所があった。詳細は省くが、人は自分を矮小化されることを恐れ、他者による自己像を偽者だったと解釈する(意訳)。身に覚えがありすぎる。「私」は何よりも尊いのだろう。だからこそ、私は独りよがりになりたくない。これまでの経験から、一人で生きていくのは無理だ、と結論づけた。私は人とでなければ生きられない。私はというか、全員だろう。超人なんて幻想だ。

このように、私はいろいろ考えているんだぞ、と示すことは大切な気がする。それは、私の矮小化を防ぐ意味でのこと。将来、小説や詩が人に広く読まれるようになって、私の一連の小説・詩を好む人が多数発生した時、彼らに「私」に迫るものを用意しておきたい。私も身に覚えがあるが、好きな音楽屋とか漫画家のインタビューはあさってしまうものだ(実際は一人しかいないけれど。そもそも、私はそこまで人に対して方向が向いていない。いや、これも違う。人に対して関心はある。しかし、それは実在の人物か、もしくは”人間”ないし”社会”という一般化されたものであって、偶像にはない。私がアイドルにハマらなかったのも、それが原因だと考えられる)。作品を作者の代弁だとするのは間違っていると断言する。こんなことは当たり前すぎるが、改めて書かなければいけない。作品は作者を超える。逆に、一個人すら超えない作品が、いいものであるわけがない。書いている最中に、どこか遠くに行ってしまう感覚がって、そのとき頭の中は空っぽで、ただ指先だけが動いている。ただ私は媒介となって、しばらく経ってから、目の前に現れた詩や小説に驚く、そういったものでないといけない。しかし一方で、作品は作者から離れることはできない。それは当然である。作者を全く語らずして作品を語ることはできない。人は人に対して大きな興味を抱いていて、同時代の人間なら尚更だ。芸術は死後始まるというのは、作者に対する興味がいい感じに薄れてくるのが、作者の死後だからなのだろう。私が生きている以上、私に対して興味の矛先が向くのは当然のことで、インタビューなどで多くのことを語るのもいいが、私は自分が完全に編集権を握っている場を用意したい。自分の意図しない勘違いは生み出したくない。勘違いされるなら騙したい。私は誤解されるぐらいなら、鮮やかに欺きたい。

別に、私のことなんて誰にも伝わらないんだ!とかそんな感傷は持っていない。前は持っていた。持っていたから、最果タヒの詩に現れる孤独な強さに憧れていた。最果タヒくらい達観したかった。しかし、今は、受け入れてもいないし、絶望してもいない。ただ、その事実を眺めている。世界についていろいろ考えた。まず確かなのは、事実の存在なのだ、とした。それが一番信じれることだった(前の文章と矛盾しているとか、そんなこと言うな!)。自分のことを100%伝えられるなんて、そんなのありえない。逆も無理だ。しかし、それは絶望するものではない。なぜなら、私たちが生きているのは、そういう世界なのだから。それに、ある程度の人間が信奉している物理だって、その理論には多くの近似が使用されているが、ものすごく多岐に渡る成果を発揮している。100%ではないことは、絶望するに足りえない。この文章の最後に今日私が思いついた格言を言いたい。「個性とは凡庸である」私はこの格言を、いつか公の場で言って、感心されたい。私が自分の詩や小説(まだ書いていない!)が広く人に読まれることを疑っていないのは、自信家だからなのではなく、妄想狂だからである。広く読まれることには、実は怯えている。なんか、こう、じわじわ読まれていってほしい。最初は、既存の文壇から評価を受けず、高橋源一郎とか吉増剛造、最果タヒとか、その辺だけが評価していて、先に世界に進出して賛否両論巻き起こして…本当に恥ずかしくなってきた。ここで終わる。