なんだか集中できないので書く。数日後には英語の試験があって、そのための勉強をしなければいけない。試験後も英語は使うから、試験があろうとなかろうと勉強はし続けるのだけど、試験前は、やはり、試験用の勉強をしなければならない。試験が終わったら、英語の詩を読みたいし、研究生活に入るために論文も読み始めようと思っている。いくつか抱いている不安を書く。エッセイが嫌いなのに、エッセイみたいなことを書いている。これを随筆とか、思想書とか言いたいが、果たしてそう言っても良い条件を満たしているのだろうか。エッセイとかクリエイターとか、安っぽい言葉が嫌いだ。いずれ世に出た時も、クリエイターとかそんな肩書を背負わされたくないし、自分から言うのは絶対にしない。芸術を背負えよ、と思う。また、文学賞を取る前から、詩人とか小説家、って名乗るべきだとも思っている。せめて、プロフィールに詩や小説を書いている、って書くべきだ。今、私はXとnoteのアカウントを持っていて(先日作った)、そのプロフィールには特に何も書いていない。文学賞を取ったから小説家・詩人と名乗るのはとても恥ずかしいことだ。人に認められないと言えないのか。正直、肩書なんてなんでもいいから、詩や小説を書いている、と書くのが一番良いと思う。小説家になりたい、詩人になりたい、というのは確かに詩や小説を書き始める動機にあったけれど、今は違う。頭の中に思い浮かんでいる小説を書きたい。小説や詩を読んでいて、よくないと思うことが多い。私ならもっと違うものを書ける。そう、信じている。小説に関しては妄想の域を出ない。書いている小説はあるが、まだ良いものは出来上がっていない。しかし、詩は違う。詩はかなり良いものが出来上がっている。今は現代詩人会をメインの投稿先としているが、そこに掲載された詩を見ても、私の詩が一番良い。ユリイカ、現代詩手帖にはまだ掲載されていない。悔しくて他の人の詩を見ることができていない。下宿に帰ったら、他の人の詩を読んでみようと思う。あぁ、また、他人を気にしている。他の人がどんな詩を書いたかなんて、芸術活動をする上では必要ないではないか? 本当にそうなのだろうか。他人がいなければ私を規定することもできない。芸術活動だって同じなのではないか。このHPの総インプレッションを見てみるも、ほとんどは外国の人で、滞在時間を一秒未満である。つまり、事故的にこのHPに訪れた人たちばかりで、これらの文章はまだ誰にも読まれていない。しかし、世に私の文章を放流しているという事実が、私の心を安らげる。何かにはなってくれるのではないか、そんな期待をしている。
おそらく、まだ世に出ていない私の文章を読みたいと思う人は、何者でもない人物の素朴な書き付けが読みたいのだろう。私の文章は彼らの求めているものではない。私は人に読まれたいと思って書いている。万人に読まれたいのではない。なんか数百人くらいに絶賛されたい。将来、詩や小説を売る時、一年で二万部くらい売れて、あとはほどほどで良い。国内ではそれだけで、海外で圧倒的な人気があると嬉しい。そっちの方がかっこいいし、国内でそこまで関心が持たれなかったら、私はとても生きやすい。私は、人の興味を持たれたがっているが、人気者になりたいわけではない。まだ誰にも私の文章、詩、小説(小説に関しては書いていないからだが)は読まれていなくて、それはやはり面白くないから、ある程度の人間には読んで欲しい。作品は読んでもらいたいが、私にまで関心が及ぶのはやめて欲しい。私自身、作家に興味を覚えることがあるので、そもそも、作家と作品は不可分なので仕方がないことだが、現在蔓延っている推し活レベルのベクトルが向くのは、本当に避けたい。私は顔を出したくない。散歩がしたい。そこら辺を歩いている時、他人から視線をよこされるなんて、頭がおかしくなりそうだ。しかし、批評をするなら、会社を設立するなら、顔は出さなければいけないのだろうか。顔の一部分だけ隠して登場するのもいやだ。顔は出したくないが、隠したくもない。こう、自然に顔を出したくないのであって、顔を隠しているといった意図を汲み取られたくない。動画は無なので、私は出演しません、と言うのは中々良い答えなような気がする。まず、私は小説の賞などを取る前に、顔を出さないことに関する理論武装を構築しなければならない。考えただけで、怖い。私の顔が世に放たれる。私の過去を知っている人が好き勝手言っている。私は、人と話すのは好きだ。積極的に人に話しかけるといったコミュ力はないが、一対一になったときは、積極的にこっちから話題を提示するし、閉鎖的な空間では社交的になりうる。友人と会話をするのは普通に好きで、人と話したくないというわけではない。人と一緒にいる時、疲れてしまうといったこともない。全く知らない人間はストレスであるが、そんなのほとんどの人間がそうだろう。私は器用だから(そう思い込むことにすると楽だ)、そこらへんは全く使い分けることができる。そう、顔を出してしまうと、私は全く知らない人間が、私のことを知っているといった不均衡な関係が生まれてしまう。全く知らない人間のことを好きな人間など、どこにいるのだろうか。いや、もちろん、私はこれから社会のために生きるし、他人のために生きる。自分のために生きるのも忘れないが、しかし、自分のためにしか生きようとしないといった倒錯は、するつもりはない。ここでいう他人は、個人である。全体であれば、私も慈愛の精神が芽生えるが、全く知らない他人という個人は、恐怖の対象でしかない。あぁ、顔を出したくない。他の人間は顔を出しているではないか、とか言われるのだろうか。そんなの、そいつらがおかしいのだ。そもそも、人前に出る人間なんて、どこか壊れていなければそんなことできないだろう。しかし、これだと相手を納得させることはできない。私だって、顔を出さなければ活動の幅が狭まって、出版したものが売れなくなってしまうといった懸念が生じたりする。しかし、本音をいうと、顔を出さずに、小説とか詩が数十万部売れて欲しい。芸術的な理由から匿名作家をしようとしているのではない。私自身、そんなの薄寒いとすら思う。作家を作品から消去することなんてできるわけがないだろうし、すべきでもない。そういうものなのだ。情報社会が嫌いだ。本当に。なんでもかんでも拡散だ。節操がない。品がない。クソ社会。辛い。