不健康

口を開くたびに顎が外れる。左のこめかみが縛られているような感じがして不快だ。目のピントが合わない。なんだか体が疲れている。失明するのではないかと怖くなる。先週眼科へ行って、適度に遠くを見ましょう、と言われる以外にはなかった。だから大丈夫だと思っているのだけど、怖い。本当に、怖い。東京のクリエイターどもが嫌いだ。睡眠時間3時間しか取っていないとか、偏った食事のアピールとか、不健康であることをクリエイターの証だと思っている。絶対にそれは違う。健康な肉体と健康な精神をもって生まれるのが狂気であって、お前らが不健康なときに良いものができたと勘違いするのは、ただの不健康による判断力の低下だ。ふざけんなよ、と怒りをあらわにしたいが、自分が弱者(健康さにおいて)であることを振り翳して攻撃しようとするのは、程度というものがある。今、言葉に悪意があった。しかし、ずっと思っていたことだから吐いた。せめて攻撃性を隠そうとはしないようにしたい。私が加害者であると、読者が被害者になれるようにしなければならない。過去のことだってそうだ。私がしてしまったよくないことを、私は絶対に忘れてはいけない。そして、そのことについて何か言うのは避けたい。それは、相手のためを思ってとかではなくて、私のためである。本当に許してくれないかな。私は、どのくらい悪かったのだろうか。本当に、世界の全てが録画されていたらと思う。そうすれば、私は、自分で過去をほじくり返してうんうんと至るはずもない結論を求めて苦しむことなく、誰かが勝手に録画したものを見て、私を捌いてくれるだろう。私はどれぐらい悪かったのか。どれくらい謝れば良いのか。辛かったことだってそうだ。私はどれくらい辛かったのか、どれくらい苦しかったと言っていいのか。そのほとんどを忘れてしまった。

何か書きたいことがあってこれを開いたはずだ。そうだ、小倉俊太朗について、だ。本当にこれを書きたかったのか? わからない。しかし、ある動画を見てあてられたのは確かだった。私は無にならなければいけない。全てを吐き出して空っぽにならなければいけない。出し尽くす恐怖は消えた。虚構を生み出すには、真実を動機にしてはいけなくて、つまり、感情を理由に詩とか小説を書いてはいけない。私小説とかの類は、もしかしたらそれでいいのかもしれないし、根本にあるのは、大きすぎて見えなくなっている感情なのかもしれないけれど、私小説は目指していないし、書きたいと思えないから、私は動機を持ってはいけない。そこに小説や詩が現れなければいけない。今まで書こうとしてかけたことはほとんどない。溢れなければいけない。詩に関してはそろそろ手が届きそうな感覚がする。なんで詩とか小説を書こうとしているのか。さっき少し考えて、もしかすると書いた小説を既存の文学賞に投稿するのは違うのかもしれない、と思った。私がしたいのは芸術だった。後世に残る作品を書きたかった。そういったものは書こうとして書けるわけではなくて、ひたすら現れるのを待つしかない。何を根拠にそう言っているのだろう。私は今まで、何を生み出したのか? まだ何も生み出していない。何も生み出していないわけではない。私は自分が何かを生み出せることを疑っていない。芸術を手段にしてはいけない。文章が汚い。文章が汚い! 全て消したい。けれど消したくない。なぜならせっかく書いたから。目が痛い。目を閉じると痛くなることがあります。たまに胸の筋肉に激痛が走ります。怖い。死にたくない。死にたくない。心配しすぎだって、本当に。根拠のない不安も、妄想も、全て取っ払え!

残ったものは何?