読んだ本の内容を、文章にまとめて公開するのが億劫だ。今、私が読んでいるのはバートランド・ラッセルの哲学入門。前に図書館で借りて少しだけ読み進めていたが、しばらくそのまま放置していた。明後日に大学のガイダンスが行われ、来週から本格的に新学期が始まるから、今積んでいる本をなるべく読み終えようと思って、今日また読み始めた。内容はかなり面白い。ところどころ疑問があったりするけれど、入門書である以上深くは立ち入れないだろうし、私は哲学の門外漢であるので、このように哲学の基本を一冊にまとめてくれているのはとても嬉しい。この手の(学術書といったら良いのだろうか)本を読み終えた時、本の内容が全く頭に入っていなくて、愕然となることが多かった。私の読みが粗雑なこともあるだろうが、もう一つの原因として、読んだ本の内容をまとめようとしていないことがある。そもそも、何かしらを勉強する時、ノートを取るのは当たり前であって、読んだだけで内容を頭に入れようとするのは、これまでの経験を無視した愚行だ。私は、何かしらに読んだ本の内容をまとめなければならない。決してそれを残す必要はない。まとめることが目的であって、まとめたものはどうしようと構わない。しかし、以前パソコンのメモにまとめようとしたことがあったのだが、続かなかった。他の重要なメモが埋もれてしまうから、記録のメモを残しておくのが嫌で書き終えたら削除していたのだが、結局すぐに削除するのになぜ書いているのだ、と馬鹿馬鹿しく感じて、やめてしまった。文章を残すことは目的にないが、内容をまとめるためには、残さなければならなかった。人は意味を求めるもので、意味はやはり外部にある。私は内部にあと数十年生きていくほどの意味を見つけられなかった。おそらく、まだ出会っていないだけだと思うし、詩や小説がそれになる可能性はかなり高いと踏んでいる。とにかく、そんな理由で、読んだ本の内容を文章にまとめて公開しようと思ったのだが、公開するのに一つ大きな壁が立ち塞がっている。それは他でもない、私の心の問題である。私は、本当に見てくれを気にする人間であり、ここで間違った知識を綴るのが、本当に恥ずかしくて、それを見られるのが心の底から怖い。小説、詩を書く分にはいい。誰も小説家や詩人に学問など期待していない。もちろん、一定の恥ずかしさは感じるが、仮に私の知識、考えが間違っていたからといって、詩や小説に影響を及ぼすことはあまりないだろう。詩や小説は書けるが、学はないのだ、と平凡な判断を下されるだけだ。しかし、私は、大学の院(理系だが)に進もうとしていて、あろうことか、文芸批評をさえ行おうとしてる。理系の学問すら疎かになっている私である。私は学ぶことを拒否し留年した。かれこれ4年ほど大学に所属しているが、果てして私が得た知識はコップ一杯満たせる程度のものなのだろうか? 批評とか院などというアカデミックな道に進もうとしているくせして学がないなんて、とんでもなく恥ずかしいことだ! アカデミックなんて言葉を使ってしまったが、いったいアカデミアがなんなのかすら知らない。流石に知るべきだろうと思って、今、積んでいる本の中には大学とは何か、という本もある。一応、学ぼうとはしている。ささやかな自己批判精神もある。しかし、だからといって何なのだ? 同級生のほとんどはこれから就職するのだ。社会に進出し、何らかの生産を施すのだ。過去を振り返って自分を罰しようとするのは自分の快楽のためだからこれ以上考えることはないが、とにかく、ここに読んだ本の内容を書くのは、ものすっごく嫌。本当に嫌。
一般に哲学と言われているものは西洋のものだけど、読んでいるとかなり人間中心主義的に感じる。また、論理を軸にしているから、0か1かしかなく極論になってしまいがちな印象を受ける。今、CODEという本を読んでいて、パソコンの仕組みを学んでいる最中だったから、{0, 1} で表現する論理が実感につながったような気がして楽しい。この楽しいという実感を大切にしていきたい。認知していないものの存在を認めるところまでは良かったし、記述されているものについても、一番初めは認識があるはずだ、というのも納得できた。それらを論証することはできないが、棄却するよりも自然だからそう考えることにするらしかった。入門書だからそうなっているのだろうか。存在、私、意識、認識、物的存在といったものが哲学の主題であるのは知っていたが、帰納法も同じくらい重要な概念だというのは、思っても見なかったことだった。本では一般原理と書かれていたが、思考法そのものも疑わなければいけないのは、徹底さを追求したら当然行き着くものだった。なるほど。哲学屋は極端な理論家だと思っていたが、もしかすると実験屋の方が近いのかもしれない。まだ三分の一しか読めていないが、その中でも印象に残ったのは、私的空間と物理空間の間に認められる類似について。物的対象が存在するとして、それは一体何なのか、という問いに答えるために、この二つの空間が言及されたのだけど、空間が複数重なっているという考え方は、世界の捉え方として極めて有効だと思った(本書では重なっているとは言ってなかった。ただ二つの空間の存在に言及しただけだった)。パソコンの仕組み、哲学、物理数学を学んでいく中で、集合論を学ばなければという思いが強まっている。八月に院試があるからその勉強を優先させなければならず、集合論をがっつり学ぶ余裕はないが、いつか時間を捻出して学びたい。学びたいと思えるのが嬉しい。ずっと勉強する意欲がなかったから、強い衝動ではないし、今もYouTubeとかXを触ってしまうけれど、わずかでも意欲が湧いたのが嬉しかった。しばらく頑張れなかったから、頑張れなかった期間が長かったから、今度は頑張りたい。
チャールズ・ペゾルドのCODEという本を読んでいる。この文章は、一つ上の分までで一旦保存して、数時間後にまた書き始めた。このような書き方をした文章は他にない。普段は、勢いのまま書いて、推敲もせずに公開している。元々、ここで文章を公開している目的が、日々同じことを繰り返すことを防ぐためであったので、心の底に沈み澱んでいるものを吐き出すことができれば、推敲などはいらなかったし、書きたくなかったら書かなければよかった。しかし、今日の文章は、読んだ本の内容を書くという目的がある。目的がある文章を書くのが苦手だ。つまり、説明することが本当に苦手だ。要は、頭の中で知識が体系化されていないということなのだろうが、知識が整理されずに原始状態のまま体の内部で渦巻いているような感覚がある。知識も不足しているのだけど、それをまとめる工程がもっと不足している。私の内部にある言葉では、全てが足りない。体の内部に色々あるはずなのに、絵も描けないし、音楽も作れないし、だから言葉でしか表せないのだと思っているが、言葉でさえ表すことができない。どれだけ私の語彙が豊かになっても、当然それを完璧に表現することはできないだろうが、行けるところまでは行きたい。本を読むとすぐに疲れてしまう。知識を整理する時間を渋って、すぐに別のものに手を出して、せっかく読んでいた本の内容を忘れてしまう。フィクションはそのまま受け取れば良いので楽だが、学術系の本はそのどれもが新鮮であり、理解するのに相応の時間が必要なため、なかなか読み進めることができず、その過程を楽しめなくて苛立つ。学ぶことを楽しみたいが、何に楽しさを感じるかを自分自身で設計することは困難であって、それは偶発的なものだから、今確かに存在するわずかな学ぶことへの楽しさを大事にしていくしかない。これと向き合えば、もっともっと楽しさが大きく感じられるようになるのだろうか。しばらく頑張れなかったから頑張りたくて、私が頑張りたいのは学問であり、詩であり、小説であり、芸術であり、批評であり、大衆娯楽だ。夢を語るならば、割と本気で思っているが、やはり人類規模の文芸を作りたいし、例えば南海トラフ地震とか、富士山が噴火したときに、何かしらできることがある人間になりたくて、そのできることは大きければ大きいほどいい。私は決して聖人ではなくて、今まで人にしたよくないこともあって、しかし、なるべくこれからの人生は誠実でいたい。