ルーツ

何かしら公に発信しようとする時、自身のルーツを示すことはとても大事なことだ。言葉で表せることは存外少なくて、しかし、今は全ての言葉が文脈から切り離され均一化されている。全ての言葉がそのまま受け取られてしまって、言葉の裏にある意味は無視されている。一日に触れる言葉の数が異常に多いから、言葉の背後にある意味なんて探っている暇などないのだと思う。もし、豊かな詩、小説を読む体験を広めようとするなら、まずは、読者が一日に触れる言葉の数を制限させなければいけなくて、そのためには、SNSから距離を取らせなければならない。いずれ、私はそういった活動をするのだと思うけれど、その時は、SNSとの向き合い方を考えなければいけないな。しかし、その頃には、人類はSNSとは別の形で言葉に触れているのかもしれない。たまに、AIが文章を均一化している、なんて言説を見かけるけれど、AIが登場する以前からそうだったし、AIが文芸を脅かすなんていう言説も見かけるけれど、AI登場以前に、どれだけの傑作が生まれたのか、と思っている。その点については、これから現代の小説を意識的に読んでみて、判断しようと思う。仮にAIがさらに発展を遂げたところで、私は詩を、小説を書きたいのであって、だからといって何か変わるわけではない。現在、私は学習の時にAIを使用している。本の中の行間を埋めるためにAIを活用している。使いすぎても良くないので、問題演習などでは一度自身で考えてから、答え合わせや別解を知るためにAIを活用している。AIの議論で退屈なのは、AIが今後世界をどう変えるのか、という話しかされないことだ。そんな御神託みたいな話がしたいわけではなくて、今後人類はどんな社会を目指すべきか、という人間が主体の話をしたいのだけど、あんまり語っている人は少ない。AIはコスト削減に大きな影響力を持つから、ビジネスでは確かに大騒ぎになるのはわかるけれど、学問や創作の範囲で、ビジネスほどの騒ぎを起こしている人を見かけても、あまり関心が湧かない。学問や創作の範囲でコストが問題になることは、確かに部分的に存在するけれど、全体の話ではないし、コストとは別次元のものなのではなかったか。そんな議論は、AIの進化に対して悠長すぎるだろうか。AIについては、これから真面目に考えていきたい。最近、科学哲学という分野があるのを知ったから、それもみていきたいし、シャノンも学びたい。学びたいことが多い。ようやく、何かを学ぶのが楽しくなってきた。そんな自分が発見できて、本当に嬉しい。

ルーツの話をし始めるには、素直に時系列順に書いていったほうがいいと思うが、幼少期は記憶が曖昧なのと、仮に幼少期から始めてしまったら、現在の状態に向かうように一筋の物語を描いてしまって、それ以外が削ぎ落とされそうなので、高校の話からする。ルーツの話だから、現在に繋がるように一筋の物語を描いても良かったのだが、なんとなく気持ちが悪い。自覚的に嘘をつくのはなるべくしたくない。無意識が何かわからないけれど、こうして公に文章を書くことで、私は無自覚に嘘をつくことができる(念のために言っておくが、これは私だけの能力ではない。人類一般に備わっているもので、それは嘘というよりも一つのペルソナであって、それも含めて本当の自分なのだ)。嘘をついたことに気づかないで、呑気に文章を書いていたい。たまに本当のことを言うから、それは読んだ人間が判断すればいいことだ。高校は関東の公立高校へ行った。公立高校ではあるけれど、私立の対極に置かれた公立ではなく、関東の、それも都会に近接したところにある進学校だった。そこに通っている人は、全員がそれなりに勉強した人たちで、私も中学の頃はかなり勉強した。高校に入ってすぐ、勉強がつまらなくなった。中学では、途中から通う塾の教室を変えたのだけど、そこが本当に楽しくて、右肩上がりに成績が伸びた。どこから聞いたのか覚えていないけど、高校に入学する時、このくらいの成績だったら高校では30位以内取れるという言葉が頭にあった。しかし、高校で始めて受けた(2回目だったか)テストでの順位は確か70位くらいだったと思う。別に悪い順位ではなかったのだけど、私は本当に恥ずかしいことに、もっといけるものだと思っていた。楽勝なのだと思っていた。後々に発覚することだけど、私は中途半端な成功体験と、事実から目を背け続けた経験によって、「効率」というものを私の美徳だと勘違いしてしまった。この自己像は今も払拭できていない。自身の過去を振り返って、頑張れなかったなと思う経験がいくつか存在するのだけど、そうした経験に出会った時、私はそんな自分を恥じて、自信を変えたいと思うと同時に、しかし、それでもなんとかなってきたではないか、と強烈な自負心を抱いてしまう。過去を振り返る時、この両極でいつも揺れている。少し前に、努力をするくらいなら、同情されるくらい酷い目に遭いたい、と本気で思っていた時期があって、それでは何もならないから、現在、私は、過去を全て見ないことによって、この葛藤から逃れ、勉強を頑張っている。大学2回生のコース長面談の時、当時のコース長から「君たちは、その結果が自分の誇るべきところだと思っているけど、それは違う。頑張ることが君たちの美徳であって、それを手放してはいけないよ」と言われた。今になって、ようやくこの言葉の意味がわかってきた。高校生活を一言で表すと、「無気力」だった。中学校までは、ほとんど家にいることがなかった私だが、高校に入ってから、土日は、家にいることが多くなった。というか、部活を除いてほとんど家にいるようになった。友人と遊ぶことなく家に篭り、しかし勉学に励むわけでもなく、新たな趣味を見つけて没頭するわけでもない私を見て、母はとても心配していた。今まで家にいる姿を見せなかった息子が、急に家に籠るようになったのだから、何かあったのではないか、と思ったのだろう。実際は、何もなかった。本当に、何もなかった。友人はいたし、彼らと話すのは楽しかった。高校を卒業してもたまに会ったりしている。人間関係に悩みはなかった。ただつまらなかった。学校が、生活が、本当につまらなかった。悩みはたったそれだけだった。中学校では、休日に遊ぶ人間と部活の人間が一致していた。だから、部活を終えたらそのまま遊びに行っていた。しかし、高校では、仲良くなった人間は別の部活だった。放課後遊ばなくなった原因はそれだった。

高校に入って初めて、自分の無趣味さを理解した。私はずっと、自分は多趣味な遊び人だと思っていた。小学校は、中学校の時よりも家にいた記憶がないのだけど、家にいたときは、ひたすら漫画を読んでいたり、レゴをしたり、当時流行っていたデュエマのデッキ構築をしていた。そんな経験から、自分は多趣味だと思っていたし、友人からも、よく本(主に漫画)を読んでいる人間だと思われていたが、中学校までは、周りの人間含め、家にいる時間がほとんどなかった。そんな人間の集まりだから、相対的に私が漫画をよく読むように見えたのであって、高校で一気に家にいる時間が増えた私は、その時間を持て余してしまった。そのことを思い知らされたのは、コロナが流行って、緊急事態宣言が発令された時だった。発令された当初、私は素直に喜んだ。学校がつまらなかったからだ。友人と話している時は楽しいが、友人と話すことができるのは授業外の時間だし、友人と話すためには、クソつまらない50分を何度も耐えなければいけない。拷問だった。中学校の時、あれだけ勉強できたのは、勉強が楽しかったのではなくて、塾が楽しかったんだと気づいた。緊急事態宣言が発令され、自宅に閉じこもってすぐ、私を襲ったのは途方も無い退屈だった。私には、すべきことも、したいこともなかった。先ほど、多趣味で遊び人な自己像を否定したが、それは半分誤っている。多趣味なのは本当で、私の興味の範囲は広い。しかし、その興味が続かない。高校生当時、ハマっていたのは音楽、お笑い、小説、スマホゲームだが、緊急事態宣言が発令され、家に篭るようになると、どれも一日で飽きた。ずっと好きだった漫画は、それほどの時間を与えられて読むものではなかった。そもそも、趣味というのは一日まるまる与えられて取り組むものではなくて、一日のほんのわずかな時間、余暇を使ってするものだった。自宅にこもっている時の記憶は、例によってない。人と共に過ごした時間は記憶に残るが、一人でいる時の記憶は、全て消えた。大学に入ってからは、本当の意味で一人になるのだけど、人生で最も記憶の薄い時間が、この大学の4年間だった。私には二種の喪失がある。高校を入学してから現在に至る無気力な喪失と、小学校から続く緩やかな喪失である。後者の喪失は、多数の人が抱く小学生特有の万能感が原因だった。小学校の時から少しずつ色々なものを失っているという感覚と、高校から現在に至るまでの時間を失ったという感覚。この二つが、現在の私を形成する上で重要なものになっている。もちろん、喪失という言葉は、私の生活を極端に表現してしまっている。この期間に得たものも当然あった。無気力だったのはそうだし、満たされた感覚など全くないけど、ここに書かなかったことはたくさんある。願わくば、この文章が誰かの支えにならないことを。私自身経験があるのだけど、辛かった経験を話していた人間が、後に自身の幸福の思い出を話すのを聞いた時、裏切られたという気持ちになって、激しい怒りが湧く。おそらく、この文章を読んだ人間も、私が意図的に語っていないことを後に聞いて、私に裏切られたという気持ちになるのだろう。だから、この文章を拠り所としないでほしい。ここのHPにある言葉は、全て私のためにある。決して、この文章を用いた一連の消費行動を統制しようとするのではない。私自身、そんな働きかけはしたくない。インターネットはもう少し無責任になっていいと思っている。今の時代でそんなこと言うのは難しいし、現実を見れていないけど、私の周辺ではそうであってほしい。私がここで言っているのは、読者という個人に向けてである。もし、あなたがこの文章を見て、私の像を作ってしまったら、おそらく後にあなたは傷つくから、やめてほしい。その怒りが私に向くのが、とても怖い。私は、インターネットで相互交流しようなど全く思わない。一方的で、独善的で、独りよがりな、そんな発信がしたい。だからこれは、ルーツを開示するとか言っているけれど、私のための文章なのであって、この広いインターネット空間に、私のためだけの言葉があって、私のためだけに書かれた言葉があることが、とても嬉しい。公にする以上、読者は想定している。しかし、この場においては、まず何よりも私を優先する。それが嫌なら、読まなくていい。インターネットってそういうものだと思うし、なるべくそうであってほしい。