現在は夜中の3:17。さっきまで寝ていたのだけど目が覚めてしまった。寝ている最中、頭の後ろ側が突然暖かくなって、おそらく血流の関係なんだろうけど、それで目が覚めた。何か重大な脳の病気の予兆なのではないかと怖くなって、死にたくないという気持ちが抑えられなくて、#7119に電話した。自分が不安症であることは自覚している。医者に診断されたわけではないけど、不安を抱くことは多くて、抱えている不安が根拠の薄い非合理的なものであるとは思っている。抱えるべきでない不安まで抱えてしまっていることはわかっている。しかし、論理ではないのだ。一度不安を抱えてしまったら、その不安が杞憂だと示す絶対的な確証を得るか、もしくは不安を忘れるまで時間をやり過ごすしかない。私が行くべきは脳の医者ではなくて、精神科なのだろう。確かに、今まで私はMRIを受けに行ったりしていたが、精神科へ行けばよかったのかも知れない。今日とか行ってみようか。今かかっている医者は、皮膚科、眼科と、肛門科(痔)である。皮膚科と肛門科は特に重大な病気というわけではない。先週、充血とめやにがとまらなくて眼科へ行ったら結膜炎だと診断され、処方された目薬を指している。医者にかかるまで不安がとれない。当たり前だ。不安は思考によって導かれるのだから、考えて不安が解消される訳がない。行動を起こすしかない。何かの本で、不安という感情は行動を起こすための感情なのだと、書いてあったような気がする。行動を起こすのは重要だけど、何もここまで不安を感じなくてもいいんだけどな、と思う。
思うに、死の恐怖は二種類ある。一つは、いずれ身体と精神は活動を停止し、モノになった後、肉体が消却され無になる、という将来にある死の恐怖。もう一つは、もっと動物的で形を持った現在にある死の恐怖。私が抱いているのは後者だ。逆に、前者の将来的に無になることの恐怖は全く感じない。たびたび思うことなのだが、私は「未来」という概念に対する実感が薄い。これまでの経験から未来に起こることを演繹することはできるし、実際、私も数年後という言葉は使っているのだけど、未来が存在すると信じているわけではない。いや、信じている。そうではなくて、なんて言ったらいいのだろうか。未来のことを考えることができない。現在と未来の比重は、誰しも現在の方が大きいだろうが、私はその程度が甚だしいように思う。現在のことを考えすぎて、未来のことを考える余裕が残っていないというか。だから死の恐怖も、将来的にあなたは無になると言われたところで、全く考えることも実感することもできないから、微塵も恐怖を感じない。私が抱いている恐怖は、具体的な病気や突然死、交通事故に対する恐怖である。背中が、こめかみが痛むたびに、何か重大な脳の病気なのではないかと怯え、無症状であれば、癌が手遅れなぐらい進行していたらどうしようと怖くなり、信号を待つ時は、車が突っ込んでくるかも知れないから、なるべく道の奥の方に寄る。本当に、疲れる。病院へ行った方がいいのだろう。なぜ行きたくないかというと、自分でもこの不安が実体のないものだと気づいていて、もし病院へ行ってしまったら、笑われるかもしれないし、また、病院へ行くことで、荒唐無稽な不安が形となって現れるような気がするからである。実体のない不合理なものと思っている不安感が形になってしまったら、なんか、よくない気がする。単純に病院に行くのが手間、というのもある。一時的に途方も無い量の死の恐怖が押し寄せて、どうしようもなくなったときがある。そのとき、私は大学で授業を受けていた。黒板の文字をノートに書き写しているとき、ふと、死にたくないと思った。何の脈絡もなかった。ただ、不意に、死にたくない、そう思った。そこから、死にたくない、という言葉がとまらなくなった。頭の中で、死にたくない、という言葉が溢れ出て止まらない。反復し続けるうちに、意味はなくなって、ただ”死にたくない”という記号が頭の中を埋め尽くしていく。段々息苦しくなって、他に何も考えられなくなって、どうしようもなくなって、教室を出て、うずくまった。
月ノ美兎も死の恐怖を感じる人間(バーチャルYouTuber)なのだけど、彼女の場合は、将来的な死の恐怖であって、私とは違う。別に視聴者の分際で彼女のことをわかった気になっているとか、そういうことではないが、配信で言っている限りは、あまり食生活も気にしているようには思えない。”今”に対する死の恐怖を抱いている人間が食生活を気にしないことはないと思うから、私の抱いている恐怖と彼女の抱く恐怖はまた違うのだろう。死の恐怖を公言している有名人をあまり知らなくて(あまりに自明すぎて皆言わないのだろう)、彼女が仲間だと思っていたから、できることなら同じ類の死の恐怖を抱いていて欲しかった。そしたら寂しくなかった。探せばいるのだろうけど、知っている人間であるのが重要で、ネットで検索して同種の恐怖を抱いている人間を見つけたところで、それは血の通っていないただの情報になってしまう。いや、動画を見ただけで知った気になんてなっていないのだけど、しかし、知っている感というのが非常に重要なのだ。誰かいないかな。念の為言っておくが、私はガチ恋ではない。そもそも、推しというのもできたことがない。他人に対する興味が薄いわけではない。現実に応対した人間には慈愛の精神が発生するが、物理的に距離の遠い人間を、人間として扱えないのだと思う。完全にモノ化してしまっているわけではないが、対して興味を持てない。知っている人間が炎上していたら胸が締め付けられるが、それまでである。最近は、そのことを自覚して、インターネットで人と交流しようとするのをやめた。昔は、現実で人付き合いができないなら、インターネットで人との繋がりを作ればいいと思って色々試していたが、ことごとく失敗した。黒歴史も作った。結局、オフライン上でしか人間関係を構築することはできなかった。同じ理由から、動画のコメント欄も見ないし、他人がこの動画のことをなんと言っているかもあまり興味がない。配信を見る時も、コメント欄は閉じている。一緒に見たいとは思わない。私の好きなものを、他人が好きになる必要はないし、共有すべきこともない。
死の恐怖は不安症の一種であって、私の根源にあるのは、死に対する恐怖ではなく、不安である。それは、芥川龍之介の言ったぼんやりとした不安ではなく、輪郭のはっきりとしたあらゆるものに対する具体的な不安である。今抱いている恐怖は失明に対する恐怖である。死の恐怖と同じくらい、もしかすると、それより大きいかも知れない。日に日に視力が下がっていくのを感じている。目は一生もので、視力は下がってしまったらもう上がらないから、そのことが本当に悲しくて、怖い。失ってしまったものは取り戻せない。ずっと後悔している。もっと気をつければよかったと思っている。一応気をつけているはずだけど、それも完璧ではなくて、現在私は悪循環にハマっている。死、失明に対する恐怖を抱えていて、それに対処するには行動するしかないと思っているから、食生活・運動・睡眠など気をつけようとするのだけど、不安を抱えるだけで疲れてしまって、行動につながらない。いや、実際に行動に移せているものもある。睡眠は7、8時間は寝ているし、運動も、定期的に川沿いを走ったりしている。問題は食生活であって、私の家には調味料がない。それは考えるのに疲れたからとか、節約のためでもあるし、特別に思われたいとかもそうなのかもしれない。栄養があって、安くて、たくさん量があるような、そんなご飯がいいのだけど、そのためには自炊をしなくてはいけなくて、毎食作る気力がなくて、自炊しないときは、結局、コンビニなどで味の濃ゆいものを食べることになる。私の抱えている不安感は慢性的なものではない。日々のある瞬間にひょっこり姿を表して、しばらくすると跡形もなく消え去ってしまう。時間が過ぎれば消え去ることを知っているから、だから対処しようとしないのだろうか。いや、しているけれど、徹底していない。私の怠惰もある。そう、こんな風に、この場で、私は一方的に書ける立場にあるから、この文章上で私は私を演出しているのだけど、私は怠惰なのだ。怠惰ってわけではないか。でも、すべき行動を全て起こせているかと言われれば、それはないし、その頑張りの程度も、もっと頑張れたのではないか、と思われるくらいだと思う。たまに思うが、私の生活が全て監視カメラとかで録画されれば、私は自分がどれくらい苦しんでよくて、辛かったと言えるのかわかるのに。誰も見ていないし、日々の生活でほとんど人と話さないから、自分の話す感情や過去の根拠が全て私にしかなくて、私によって加えられた演出に対して過敏になっている。誠実にあろうとするだけましか。過去は変えられないから、今は誠実でありたいと思っている。私は決して聖人ではないし、聖人にはなりたくもないが、誠実な人間でありたい。それは過去の後悔からだ。過去を人に言う勇気はない。
不安症は考えすぎにもつながる。今感じている不安は、隣人に対する不安である。今、この文章はパソコンで打っているのだけど、タイピングの音が聞こえていないか、不安だ。うちの家の壁はおどろくほど薄い。隣人の笑い声は、壁の存在がないくらい聞こえるし、動画とか音楽とか流していないと、隣人が椅子から立ち上がった音とか、ドアを開ける音もする。タイピングの音が聞こえてしまうのではないかという不安は、全くの妄想であるというわけではない。そもそも、今、私は「こんなに不安を感じています、考えすぎてしまいます、繊細な人間です、私は」みたいな風に装っているが、遠くから友人が来て家に泊まりに来たとき、普通にボードゲームをして楽しんだ。少し声が大きい時は諌めたが、その時はボードゲームが楽しくて、多少不安もあったけれど、そこまで隣人のことは考えなかった。後日、一階の掲示板に「うるさくしないように」という張り紙が貼られていた。そうだ、私は、別に不安症を感じてなどいないのかもしれない、考えすぎてなどいないのかもしれない、人のことを考えてなどいないのかもしれない… それはないと思うが。このように書いたら、客観的に自分のことを考えていますというアピールになるかも知れないと思って、書いた。
そういうどうしようもない類の不安に襲われているから、建設的な不安がやってこない。二週間後に英語の試験があるのだけど、その勉強が進んでいない。英語の試験が終われば学校が始まって、院試のための勉強をしなくてはいけない。来年度の前期は院試の勉強に時間を取られて、他になにもできなくなってしまうのだろう。院試が終わったら、研究生活が始まる。それまでにわかっていない箇所は再度学び直しをしたいし、研究生活が滞りなく進むように、研究生活でダウンしてまた留年しないように、研究テーマを今のうちから探しておきたいが、そこにも手が回っていない。研究生活が始まれば一日中研究漬けで、すぐ後に就活があって、あっという間に院を卒業することになるのだろう。そうなると、小説家、詩人になる夢は叶わない。だから私は、小説、詩を読んで、小説、詩を書かなければいけない。時間がない、のに、全く別のことに心が囚われている。本当に、勘弁してほしい。勘弁してほしいと思うのは、自分がコントロール可能だという神話に囚われているからか。もしかすると、ここらで私は妥協しなければいけないのか。それは、この世を知った気でいるだけで、実際はもっとやりようがあるのか。何にもなってない。結果が欲しい。簡単な結果を望みすぎた。結果を望むだけ望んで、行動が伴ってなくて、だから結果が出ないのは当たり前なのに。つら。