純粋な他人を認知することができない。確かに私は人と話しているし、彼らには彼らの生活があることも理解している。将来は社会の役にたとうという気持ちもあって、他人がいなければ生きていけないこともわかってる。他人にたどり着くための道は綺麗に舗装されているのに、いつまでたっても他人に出会うことができない。私の世界に他人は存在していなくて、ずっと独りよがりな言葉を吐いている。人と話す時は、往々にして無意識が顔をだす。無意識と創造行為は非常に接近していて、私が目指しているのは「夢」にあるのかもしれないと思うとともに、人と会話をするのも一種の創造行為なのかもしれないと思った。何かに対する強烈な愛を表現している人がいて、その愛が私に向けられていないのがとても悲しいし、なんでそれを愛しているのか興味を持てないのがもっと悲しい。これまでの経験から、他人に興味がないと断言することはできない。むしろ、他人のことは人一倍考えている。なんのために生きるのか、自分の内側に答えを探し続けていたが、間違っていた。私が生きる意味は他人にあって、そう信じたくない自分がいる。哲学は、何のために生きるのかという問いを無視して、認識とか存在とか理性について思考を巡らしていたが、絶対に順序を間違えている。まず、生きるとは何かという問いがあって、そこから様々な問題が派生していくのではないのか。生きるとは何かについて考えている本が読みたいのに、あまり出会えていない。もしかすると、全ての営みがその問いに対する答えになっていて、阿呆な私はそれを認識できていないだけなのかもしれない。自分に対して、なぜ生きているのだろう、と思う暇を与えないようにするのは簡単で、実際、家いる間は、SNSを見ることによって、死の恐怖とか、失明の恐怖、明日のこと、劣等感、恥、健康体への指向などと共に、その問いを遠ざけている。SNSを見た後に虚しさを感じることが常で、その度に読書をしようと決心しているのだけど、さほど本は読み進められていない。学問に対してそこまでの興味がない。詩も、小説も、正直あまり興味はなくて、でもそれをしなければ、今までの苦しみはなんだったんだ、って思うし、私が両手から溢れるほどの栄光を手にしようと思ったら、それくらいしか方法が思いつかなくて、このまま人生が続くのだとしたら退屈で死にそうになるから、まだ縋っていたい。人生の意義を考えた時、安直だが、歴史に残ったら何かしら意義があったと思えるから、逆に言えばそんな浅はかなことしか思いつかないほどには馬鹿なので、未だにそんなことを考えている。そういった妄想からは卒業しないといけない年ではあるけれど、自らの意思で留まっている。若き才能が羨ましかった。若き才能も、それを取り囲んで賞賛する奴らも、全て嫌いだ。小さいころからやりたいことが見つかっただけ、もしくは、結果が出るからなんとなく続けていったら、それがたまたま社会的に認められることだっただけだろう、と毒吐いた。今日したいことなんてなくて、明日したいことばかりだ。多分、こうして内省と読書を繰り返していけば何かしらに到達できるのかもしれないけど、退屈に耐えられる気がしない。実際、耐えられなかったからこうなった。誰もが見ても「素晴らしい!」って拍手喝采するような、そんなものが欲しい。昨日は眼科へ行って、今日は喉の医者に行く。今月で医者は4回目。健康な肉体が欲しい。マイナスをゼロに持っていくことが、生きる意味を考える上での現状の解で、あまりそれに真摯に取り組んでいなかったから、まずはそれを信じてみたい。しかし、空いた時間で何をしよう? 夕方だったら、散歩へ行く。散歩が好きだと思っていたけど、昼間に散歩しても楽しくなかった。太陽が眩しくて、私の目はかなり弱っているから、昼間に外に出かけるのは困難が生じる。夕方の散歩が好きだ。日差しも和らいで、気温もちょうど良くて。好きなことが見つけられてよかったって思うけど、好きなことはどうやらあまり人に語らない方がいいらしい。孤独に向き合うのが良いらしくて、その理由はよくわかっていないのだけど、私より遥かに頭の良い人間がそう言っているのだから、そうなんだろうなと思う。努力が嫌いなら惨めさに耐えろと思うけど、中々そうはいかなくて、恥と惨めさに耐えかねて涙が出てくる。これだけ憂鬱な気持ちに浸っても、微塵も死にたいとは思わない。死にたくなさすぎて困っている。あまりにも死にたくないから、どうやって生きればいいのか教えて欲しいのだけど、その答えが書いてある本を私は知らない。私は本に答えが書いてあると思うくらいに馬鹿なので、何度も同じことを繰り返して未熟なままだ。したくないことならたくさんあるのだけど。たまに他の人の営みが気持ち悪く見える。小説を書いたり、歌を歌ったり、本を読んだり、何がそんなに楽しいのだろうか。そんなに楽しいなら、その楽しさを私に教えてくれ! 哲学書を読んでたらかっこいいなと思ってるけど、読み切ったのはほんの数冊であって、プラトンもアリストテレスもハイデガーも和辻哲郎も孔子もヘーゲルもカントも知らない。つまらないけど、この退屈さの先にしか存在しないものがあって、それが私の探し求めているものなような気がする。こんな大きな感情を、詩にできたらよかったのに。歌にすれば、小説にすれば数百万円手に入っただろうか。あいつらの感情と私の感情の、いったい何が違うというのだろうか。舞台の上で自分の感情を歌って、それに涙を流す人間がいるなんて、さぞ気持ちがいいだろう。本当に羨ましい。私なんて、記憶からもこぼれ落ちて、忘れてしまったのに。あれだけ苦しんで、結局、何にもならなかった。私小説を書きたくなかったし、書けなかったから、ここに感情を書いているのだけど、全く読まれる気配がない。もう少し読まれてもいいのに。noteに書いたらもっと読まれたのだろうけど、noteには書きたくなかった。自分だけの城が欲しかった。何もしないのが大切だからといって、脱力してボーッとしてみるのだけど、過去の些事が次々に思い浮かんできて、まだこれらのことを処理できていなかったんだな、と思うと同時に、これまでに溜まっている未精算の過去を整理したら、あっというまに初老になるんじゃないかと怖くなった。色んなものを見て、何も頭に入らなくて、その原因となっている過去の出来事、将来の不安を取り除くことなんてできないのではないか、これからの人生、ずっとそうなのではないか。そんなこと考えても仕方がないのだけど。そんなことばっかり考えている。すべきことはあった。喉から手が出るほど欲しいものはある。昨日私がしたのは…言いたくもない。読もうと思って借りた15冊は、そのほとんどを読まずして返却する。宮沢賢治の詩の良さがわからなくて、今度はわかるんじゃないかと思って借りてみた。また良さがわからなかったらどうしようと思って、まだ開くことはできていない。歴史を学ぶが、聖書を読むのが大切だと思って借りてみたはいいが、全く興味がなくなってしまった。興味が移り変わるのが早いから、そんな一気に借りてしまったらよくないのだけど、一日を振り返ることもしないので、大量に借りて結局どうしたのか覚えていなくて、同じことを繰り返す。昨日はその反省を生かして、一日をきちんと振り返った。その日あった出来事を無機質に書くのではなく、一日にあった出来事と、そのとき私が抱いた感情を書いた。感情が主題で、何に対して感動して、何に対して怒って、何に対して悲しんだかを振り返っていけば、私が向かうべき方向もわかるんじゃないかと期待した。日記自体はまるまる3冊分書いていて、書く以前に比べたら前進はしている。良い習慣がついているから、それを生かしていきたい。散らかった部屋を片付ければいいのに、引っ越すことだけ考えている。どうして人に見せることなく、孤独に取り組むことができるのだろうか。SNSにいる奴らを見下している。彼らの気持ちはいたいほどわかる。彼らは全く他人を必要としていない。自発的欲求を守り抜きすぎて、他人からの学びをいっさい必要としていない。自分が思いつくことが何よりも重要で、数学も社会学も哲学も全く必要としない。そんな奴らが嫌いで、だから自分も嫌いだ。雑にSNSで情報を浴びると、無気力、放心状態になって何も考えられなくなるから、SNSはあまり触らない方が良くて、つまり私は何度も言うように孤独に耐えなければいけない。それなのに、こうして自分の感情を誰かに聞いて欲しくて吐き出している。弱い。憧れがあって、彼らに追いつくためには、自分の長所を最大限活かさなければいけないのだけど、追いつきたいのは三日後であって、数年後ではない。長期的な目標に向かって取り組むことができない。フルマラソンを走り切れたのは、残り十数キロメートル地点まで、42キロ走ることを認識しないからだった。単純に、42キロ走るとは思っていないから、フルマラソンを走りきることができる。先のことなんて微塵も考えていないから、こんな日々を過ごしている。今日もうどうせ、家に帰ったらゲームとかSNSとか見て、簡単に0時を回ってしまうんだろうな!