個人HPを作った。noteとかXなど、持っていたSNSのアカウントは全て消した。現在私が公にしているのは、このHPにある文章のみである。なぜ個人HPを作ったのかというと、自由が欲しかった。私の発言を政治的な文脈に汲み取られることなく、誰かの発言の原作になることもなく、ただ無機質に発信する場が欲しかった。私はまだ何者でもない。私は詩を書いている。詩を書いて、日本現代詩人会とか、ココア共和国に投稿している。ここ3ヶ月くらい大学の勉強を優先しようと思って、どうせ今書いたところでろくなものができないと思って、書くのをやめていたのだけど、最近また書き始めた。詩。人に認められることがそれくらいしかない。
本当は、ある。世間的に見れば、私の通っている大学はいわゆる高学歴であるが、結局それも空虚である。中身のないただのハリボテである。世間はそれに気づいていながらも、就職では経済的な理由で一次審査の時に使われる。仮に一次審査に合格したところで、面接をすれば化けの皮が剥がれるだけだ。本来ならば、持っている学歴を中身のあるものにできたはずだった。勉強しないことを選んだのは他でもない私自身で、全て私の意志かと言われればそうではないけど(完全な自由意志なんてないだろうし)、何もしなかった過去の原因のある部分を占めるのが私であるのは間違い無くて、その大きさは鯨とか大仏よりも大きいと思う。今、無理に文学っぽくしようとして比喩を使ってみたが、読み返しても何も感動しない。不自然さが前面に出ている。恥ずかしい。
なぜ私は書くのか。書く理由はいらないか。なぜ私は書いたものを公開するのか。それは、一人で生きることはできないからだ。三島由紀夫があるインタビューで、「人は自分のために生きれるほど強くない」と言っているのを見た。本当にその通りだと思う。一人でいて、生きる理由なんて見つかるはずがない。私は見つけることができなかった。見つけることができなかった理由を探すのは簡単だ。ニーチェの言う超人も、SNSにかまけることなく、己と対峙し続けていれば、なれたのかもしれない。流石に時間が短いかな。しかし、やっぱり私は一人で生きることは無理だと思う。ずっと一人でいると、全てがわからなくなってくる。一人になって、なぜこんなことになったのか理解しようと、過去と記憶を解体していって、余計わからなくなって、答えがあるかもしれないと思って縋りついた哲学は難し過ぎて、なんとか理解できたところがあっても、結局哲学は無限に問い続ける営みだったから、私の求めている答えには一生辿りつかない。私は、生きたい。生きるために、ゆるがない信念が欲しくて、生きる意味が欲しくて、世俗的で低次でもいいから目標が欲しかった。哲学はその信念を問う学問だった。唯一、ショーペンハウアーとかヴィトゲンシュタインとか、別に本腰を入れて読んだわけではないけど、きっぱり言い切っている彼らの哲学は惹かれるものがあった。哲学としては、彼らの哲学は、存在とか認知とか、世界の基礎にあるものを足場にしてから取り組むようなものとは違うのかも知れない(私がそこまで彼らの哲学を学んでいなから、曲解しているのかもしれない)けど、私はそれらを疑いたくない。一番幸福だった時は小学生の頃だった。当時、私は何も考えていなかった。考えないことの幸福を、私は既に知っている。もう大人(年齢的に)だし、次はそういった彼らを支えなければいけないから、社会が成り立つように、今度は私が考えなければいけなくて、そのことに特段悲観的になっているわけではないけど、今哲学が取り組んでいるような世界の基礎となっていることは無条件に信じたい。それらを疑う余裕なんてない。無理だ。ただ、きっと、こんなことを今のSNSで言ったら、強者という加害者みたいな話に回収されてしまうんだろうな。「思考をすることができるのは、社会に必要な仕事を他の人が負っているからだ」とか、その逆に、「思考をしなくてもいいのは、他の人が考えてくれているからだ」みたいな。もちろん、それは認識しているし、仮にその人が面前に現れたら私は感謝を伝える。けれど、そんなことを言い出したらキリがない。この世界のどこまでを疑うべきか、という問題も同じだけれど、ある程度で妥協しないと、人は生きることができない。強者は加害者である、というのは、流石にいき過ぎていると思う。強者は強者のまま幸せになれる。私は強者も弱者も多数者も少数者も、全員そのまま幸せになってほしい。心からそう思っている。私が多数者で、強者だからだろうか。違うと思うけどな。
私は日記を書いている。日記を書き始めた当初は、これを書いてしまったら、もう詩も何も思い浮かばなくなるのではないか、とか怯えていたが、杞憂だった。むしろ、日記によって吐き出すことで、形になるものを残すことで、心が軽くなった。しかし、しばらく書き続けていたが、書いても書いても日々が停滞している感覚を取り除くことはできなかった。日記を書き始めたのは、前進している感覚が欲しかったからだ。何もならない日々が怖くて、何か形に残したくて、日記を書いた。しかし、日記を書いても、焦燥感も不安感も根本から改善されることはなかった。それはやはり、一人で生きていくことはできないからなんだと思う(違うだろうか)。誰かに見られないとやっていけない。最果タヒの詩をよく読んでいて、彼女のインタビューだかエッセイだかで、「誰に見られようとか思わず書かれた、インターネットの片隅にある日記みたいなものが好き(超意訳)」と言っているのを見た。私は、人の期待に過度に応えようとする傾向があって(ないかも)、よく読んでいた詩人の最果タヒの言葉なら尚更だが、私は、これを人に見られたくて書いている。人に見られたくて仕方がない。日記を書いている時、確かに心は休まるのだけど、結局、なんにもなっていないではないか、と落胆し、強烈な焦燥感に襲われる。いや、何かにはなっている。自分の心の、頭の整理になっているし、書いてから気づくことというのは案外多い。しかし、進んでいる感覚が全くしない。日記というのは足場を固める行為であって、前に進むものではないのだと気づいた。足場を固めるのは大事なことだと思うけど、生きている感じがしない。私は前に進みたい。ずっと同じ景色を見ている気がする。高校卒業してから変わっているのだろうか? 高校を卒業してから4年が経った。世間から見れば、私はまだ若い。若くて、可能性があって、まだ存分にやり直せるのだろう。しかし、そんな冷静な若者がどこにいる? 若者は全員バカだ。将来のことなんて考えれるわけがなくて、過去に囚われて未来はなくて今が全てだから、ずっと失ったものばかり数えている。なれたかも知れない自己像に浸っている。ひたすら妄想を繰り返している。
それならば、なぜさっさと個人HPを作らなかったのか、と思うかも知れない。思わないか。そもそも、ここまで私の文章を読んでくれる人が何人いると言うのだろうか。私は、将来、何になっているのだろうか。若者である私は本当にバカなので、現実的な未来は全く考えることができない。クソみたいに輝かしい栄光を妄想している。今書いている小説も、これを世に出せばノーベル文学賞をとれると思っている。あまりに馬鹿すぎるか。世の若者はここまで愚かではないだろう。若者に失礼だ。しかし、今書いていて、この小説が良くないなんて本当に思えない。現在刊行されている小説を見ても、私の小説はよくないのではないかという不安は全くやってこない。あまりに見る目がないから、そんなことを思うのだろうか。考えてしまったら、すぐにその小説の出来の悪さに気づいてしまうから、考えないようにしているだけか。それはありそうだ。文章はあまり良くないから、研鑽を積まなければいけなくて、この日記みたいなエッセイみたいな思想みたいな私小説みたいなものが、つまりこの演技が、文を書く練習になればいいと思っているけれど、中身はそこまで劣っていないし、むしろ、何か今まで人類が辿り着けなかったものを掴みかかっているような気がしてならない。自惚れすぎだろうか。あまりに長く妄想に浸っていたから、わからなくなっているのか。Xでもnoteでも、私の心情を綴ることはできた。しかし、私は、自分の城が欲しかった。noteとかXに書いてしまったら、noteとかXの文脈を踏まえて解釈されるだろう。序盤に書いたが、私は、他の文脈から切り離したかった。この世に独立したものは存在しないと思っているので、切り離すと言っても、ある程度までだけれど、できる限り切り離したかった。あと、panpanyaのHPを見て、これいいな、と思ったのもある。自分だけの城を持っている人に憧れた。世間から遊離しているその姿がかっこいいと思った。
こうして文章を世間に公開する時、最も大きな問題となるのは、演出の問題である。今、こうして私の心情を語っているわけだけれども、私には語っていないことがたくさんある。過去にした良くなかったこと、恥ずべきことなど。今サラッとまとめて書いてしまっているが、それらは一万字とかそれ以上かけて書かなければいけないものであって、私という一人の人間を語る上では絶対に欠かせないものなのだけれど、私は、ここで何も書かなかった。もちろん、この文章は私を説明するものではないが、ここまで心情を書いているならば、少しぐらいは書いてもいいはずだった。私は、ここで演技をしている。というか、人は他人に対して演技をする生き物である。それは日記でも変わらない。日記は他でもない自分のために書いているはずなのに、そこでも演技は行われる。日記は、その日にあった出来事のうちから、自分が信じたいものだけを取り出して、私を再構成する装置である。私は恥ずかしいことに、この演技をしているのは自分だけだと思っていた。しかし、「「私」をつくる:安藤宏」という本の中で、日記を書いているときも演技をしているのだと、サラッと書かれてあった。これを見つけたとき、私はとても恥ずかしかった。一度演技をしている自覚が芽生えれば、どれが本当の自分だとわからなくなるだろう。過去の罪や引け目を隠して、私の中の見せたいものだけを見せる自分に嫌気がさすだろう。そのように考えてしまったら、私は何も書けなくなる。だから、もしこれを読んでくれている人がいるならば、これは私の演技なのだと、知っていてほしい。全て演技だと言っているのではない。演出をしているということを言いたい。本当の自分とか言い出したら訳がわからなくなるから言わないが、これを本当の私だと思わないでほしいし、嘘だとも思わないでほしい。適度な距離を保ってほしい。そう、適度な距離。既存のプラットフォームで投稿すると、適度な距離を築くことができない。これは私の城である。お金払ってよかった。サーバーを借りている会社が倒産したら、この文章はどうなるんだろう。
また、書きたいことがあれば自由に書こうと思う。人に見られるといいな! 結局、私は何がしたいんだろうか。これが見られたところで、別にコメント欄を開設しているわけではないし(自分で消している)、エッセイの依頼があったといって断るだろう。何様だろうか。依頼が来るとか思っている。でも、私はエッセイを書きたくなかった。自分の感情とか思考は煮詰めて小説や詩で発散するものだと思っていた。私はそれに耐えることができなかった。こうして自分の心情を雑文に表してしまったら、詩も小説も書けなくなるのではないか。日記みたいに、その心配は杞憂に終わってほしい。私は日頃から考えることが多くて(皆考えている)、話す相手もいないから、これを書くぐらいでちょうどいいとか、そうだったら嬉しい。まだこれについては考えようと思えば考えることはできる。しかし、考えても無駄なのだ。私は愚かなので、考えても結局答えは見つからない。私は考えるという営みを、できるだけ早く解にたどり着くことだと思っている。それが違うのか。果たして私は、無限の問いに耐えられるのだろうか。行動しなければ前に進まない。今度は進んでほしい。誰かに見られたい。誰もいない。誰かはいるのか。しかし、私は何が欲しかったんだっけ。これも演出なんだろうけど、本物だと信じたい。
これがなんかになればいいな。