不健康

口を開くたびに顎が外れる。左のこめかみが縛られているような感じがして不快だ。目のピントが合わない。なんだか体が疲れている。失明するのではないかと怖くなる。先週眼科へ行って、適度に遠くを見ましょう、と言われる以外にはなかった。だから大丈夫だと思っているのだけど、怖い。本当に、怖い。東京のクリエイターどもが嫌いだ。睡眠時間3時間しか取っていないとか、偏った食事のアピールとか、不健康であることをクリエイターの証だと思っている。絶対にそれは違う。健康な肉体と健康な精神をもって生まれるのが狂気であって、お前らが不健康なときに良いものができたと勘違いするのは、ただの不健康による判断力の低下だ。ふざけんなよ、と怒りをあらわにしたいが、自分が弱者(健康さにおいて)であることを振り翳して攻撃しようとするのは、程度というものがある。今、言葉に悪意があった。しかし、ずっと思っていたことだから吐いた。せめて攻撃性を隠そうとはしないようにしたい。私が加害者であると、読者が被害者になれるようにしなければならない。過去のことだってそうだ。私がしてしまったよくないことを、私は絶対に忘れてはいけない。そして、そのことについて何か言うのは避けたい。それは、相手のためを思ってとかではなくて、私のためである。本当に許してくれないかな。私は、どのくらい悪かったのだろうか。本当に、世界の全てが録画されていたらと思う。そうすれば、私は、自分で過去をほじくり返してうんうんと至るはずもない結論を求めて苦しむことなく、誰かが勝手に録画したものを見て、私を捌いてくれるだろう。私はどれぐらい悪かったのか。どれくらい謝れば良いのか。辛かったことだってそうだ。私はどれくらい辛かったのか、どれくらい苦しかったと言っていいのか。そのほとんどを忘れてしまった。

何か書きたいことがあってこれを開いたはずだ。そうだ、小倉俊太朗について、だ。本当にこれを書きたかったのか? わからない。しかし、ある動画を見てあてられたのは確かだった。私は無にならなければいけない。全てを吐き出して空っぽにならなければいけない。出し尽くす恐怖は消えた。虚構を生み出すには、真実を動機にしてはいけなくて、つまり、感情を理由に詩とか小説を書いてはいけない。私小説とかの類は、もしかしたらそれでいいのかもしれないし、根本にあるのは、大きすぎて見えなくなっている感情なのかもしれないけれど、私小説は目指していないし、書きたいと思えないから、私は動機を持ってはいけない。そこに小説や詩が現れなければいけない。今まで書こうとしてかけたことはほとんどない。溢れなければいけない。詩に関してはそろそろ手が届きそうな感覚がする。なんで詩とか小説を書こうとしているのか。さっき少し考えて、もしかすると書いた小説を既存の文学賞に投稿するのは違うのかもしれない、と思った。私がしたいのは芸術だった。後世に残る作品を書きたかった。そういったものは書こうとして書けるわけではなくて、ひたすら現れるのを待つしかない。何を根拠にそう言っているのだろう。私は今まで、何を生み出したのか? まだ何も生み出していない。何も生み出していないわけではない。私は自分が何かを生み出せることを疑っていない。芸術を手段にしてはいけない。文章が汚い。文章が汚い! 全て消したい。けれど消したくない。なぜならせっかく書いたから。目が痛い。目を閉じると痛くなることがあります。たまに胸の筋肉に激痛が走ります。怖い。死にたくない。死にたくない。心配しすぎだって、本当に。根拠のない不安も、妄想も、全て取っ払え!

残ったものは何?

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ぼんやり

なんだか集中できないので書く。数日後には英語の試験があって、そのための勉強をしなければいけない。試験後も英語は使うから、試験があろうとなかろうと勉強はし続けるのだけど、試験前は、やはり、試験用の勉強をしなければならない。試験が終わったら、英語の詩を読みたいし、研究生活に入るために論文も読み始めようと思っている。いくつか抱いている不安を書く。エッセイが嫌いなのに、エッセイみたいなことを書いている。これを随筆とか、思想書とか言いたいが、果たしてそう言っても良い条件を満たしているのだろうか。エッセイとかクリエイターとか、安っぽい言葉が嫌いだ。いずれ世に出た時も、クリエイターとかそんな肩書を背負わされたくないし、自分から言うのは絶対にしない。芸術を背負えよ、と思う。また、文学賞を取る前から、詩人とか小説家、って名乗るべきだとも思っている。せめて、プロフィールに詩や小説を書いている、って書くべきだ。今、私はXとnoteのアカウントを持っていて(先日作った)、そのプロフィールには特に何も書いていない。文学賞を取ったから小説家・詩人と名乗るのはとても恥ずかしいことだ。人に認められないと言えないのか。正直、肩書なんてなんでもいいから、詩や小説を書いている、と書くのが一番良いと思う。小説家になりたい、詩人になりたい、というのは確かに詩や小説を書き始める動機にあったけれど、今は違う。頭の中に思い浮かんでいる小説を書きたい。小説や詩を読んでいて、よくないと思うことが多い。私ならもっと違うものを書ける。そう、信じている。小説に関しては妄想の域を出ない。書いている小説はあるが、まだ良いものは出来上がっていない。しかし、詩は違う。詩はかなり良いものが出来上がっている。今は現代詩人会をメインの投稿先としているが、そこに掲載された詩を見ても、私の詩が一番良い。ユリイカ、現代詩手帖にはまだ掲載されていない。悔しくて他の人の詩を見ることができていない。下宿に帰ったら、他の人の詩を読んでみようと思う。あぁ、また、他人を気にしている。他の人がどんな詩を書いたかなんて、芸術活動をする上では必要ないではないか? 本当にそうなのだろうか。他人がいなければ私を規定することもできない。芸術活動だって同じなのではないか。このHPの総インプレッションを見てみるも、ほとんどは外国の人で、滞在時間を一秒未満である。つまり、事故的にこのHPに訪れた人たちばかりで、これらの文章はまだ誰にも読まれていない。しかし、世に私の文章を放流しているという事実が、私の心を安らげる。何かにはなってくれるのではないか、そんな期待をしている。

おそらく、まだ世に出ていない私の文章を読みたいと思う人は、何者でもない人物の素朴な書き付けが読みたいのだろう。私の文章は彼らの求めているものではない。私は人に読まれたいと思って書いている。万人に読まれたいのではない。なんか数百人くらいに絶賛されたい。将来、詩や小説を売る時、一年で二万部くらい売れて、あとはほどほどで良い。国内ではそれだけで、海外で圧倒的な人気があると嬉しい。そっちの方がかっこいいし、国内でそこまで関心が持たれなかったら、私はとても生きやすい。私は、人の興味を持たれたがっているが、人気者になりたいわけではない。まだ誰にも私の文章、詩、小説(小説に関しては書いていないからだが)は読まれていなくて、それはやはり面白くないから、ある程度の人間には読んで欲しい。作品は読んでもらいたいが、私にまで関心が及ぶのはやめて欲しい。私自身、作家に興味を覚えることがあるので、そもそも、作家と作品は不可分なので仕方がないことだが、現在蔓延っている推し活レベルのベクトルが向くのは、本当に避けたい。私は顔を出したくない。散歩がしたい。そこら辺を歩いている時、他人から視線をよこされるなんて、頭がおかしくなりそうだ。しかし、批評をするなら、会社を設立するなら、顔は出さなければいけないのだろうか。顔の一部分だけ隠して登場するのもいやだ。顔は出したくないが、隠したくもない。こう、自然に顔を出したくないのであって、顔を隠しているといった意図を汲み取られたくない。動画は無なので、私は出演しません、と言うのは中々良い答えなような気がする。まず、私は小説の賞などを取る前に、顔を出さないことに関する理論武装を構築しなければならない。考えただけで、怖い。私の顔が世に放たれる。私の過去を知っている人が好き勝手言っている。私は、人と話すのは好きだ。積極的に人に話しかけるといったコミュ力はないが、一対一になったときは、積極的にこっちから話題を提示するし、閉鎖的な空間では社交的になりうる。友人と会話をするのは普通に好きで、人と話したくないというわけではない。人と一緒にいる時、疲れてしまうといったこともない。全く知らない人間はストレスであるが、そんなのほとんどの人間がそうだろう。私は器用だから(そう思い込むことにすると楽だ)、そこらへんは全く使い分けることができる。そう、顔を出してしまうと、私は全く知らない人間が、私のことを知っているといった不均衡な関係が生まれてしまう。全く知らない人間のことを好きな人間など、どこにいるのだろうか。いや、もちろん、私はこれから社会のために生きるし、他人のために生きる。自分のために生きるのも忘れないが、しかし、自分のためにしか生きようとしないといった倒錯は、するつもりはない。ここでいう他人は、個人である。全体であれば、私も慈愛の精神が芽生えるが、全く知らない他人という個人は、恐怖の対象でしかない。あぁ、顔を出したくない。他の人間は顔を出しているではないか、とか言われるのだろうか。そんなの、そいつらがおかしいのだ。そもそも、人前に出る人間なんて、どこか壊れていなければそんなことできないだろう。しかし、これだと相手を納得させることはできない。私だって、顔を出さなければ活動の幅が狭まって、出版したものが売れなくなってしまうといった懸念が生じたりする。しかし、本音をいうと、顔を出さずに、小説とか詩が数十万部売れて欲しい。芸術的な理由から匿名作家をしようとしているのではない。私自身、そんなの薄寒いとすら思う。作家を作品から消去することなんてできるわけがないだろうし、すべきでもない。そういうものなのだ。情報社会が嫌いだ。本当に。なんでもかんでも拡散だ。節操がない。品がない。クソ社会。辛い。

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寂しさ

孤独というタイトルをつけたが、寂しさに変えた。孤独という言葉は、私の実感からかなり離れたものであるように感じた。私がいつも感じているのは、孤独ではなく、寂しさだった。私は一日の大体の時間をインターネットで過ごしている。誰かと繋がりたくて仕方がない。常時接続型社会というのは何年前の言葉なのだろうか。Twitter(今はX)ができて15、6年くらい経ったのかな。私の人生の大半はSNSができた後の社会で、ありとあらゆる情報が身近にある状態で過ごしてきたから、私は既に世界の全てを知っているのだ!なんて勘違いしている。思考が横に滑っていく。私の思考の型はこうなのだろう。ウルフとかジョイスとか、その辺の作家の小説を読んでみたい。彼らは、文章をただ意識が流れるように書き綴っているらしくて、もしかすると、今の私の文章も、彼らの小説と同じものになっているのかもしれない。であれば、私は既に小説を書くことができる、ということだ。嬉しい。しかし、それは創造ではないから、悲しい。

ここに書くべきことを考えている。私は、ここを演技空間だとしていた。「私」と文章の距離を計りかねている。私は決して本当の自分が存在すると信じているような酔狂な人間ではない。私が信じているのは「今私が存在すること」である。もっと言えば「今世界が存在すること」も信じている。しかし、私の存在よりも世界の存在の方が不確かになってしまうのは仕方がない。私の最も強烈な信念のうちの一つは、「現在における私の存在」であり、それと同列にあるのは「世界の存在」「他者の存在」「死にたくないということ」「視覚」である。これの次に「音楽」かな。世界の存在と他者の存在に時間軸は発生していない。彼らは時間とは独立した存在である。私はまだ相対性理論を学んでいないから、時間と空間の関係の話に言及することができない。そうだ、「空間」もまた、私の最も強烈な信念のうちの一つだ。そうなると、相対性理論は学ぶ価値がある。院試の勉強をしながら、余裕があったら齧ってみようか。現在における「私」の存在は疑っていないが、では「私」とは一体なんなのか、と言われれば明確な回答を述べることはできない。今、平野啓一郎の分人主義の本とか、鷲田なんちゃらの私に関する新書とか、それらを借りたり買ってみたりして読んでいる。このように、外部に働きかけようとして文章を書く時、私という問題が現れる。安藤宏の本は面白かった。このHPを演技空間と宣言しようとしたのも、彼の本を読んだからだった。私は、まだ文章と私の関係について考えられていない。ようやくその入り口に立った段階である。演技空間として割り切ってしまえば容易いが、しかし、このHPに書かれていることは、別にフィクションではないし、かといって事実でもない。エッセイとは言いたくない。私はエッセイが好きではない。推し文化に対する反発心。分人主義の本を読んで、私はペルソナの問題を持っていないことに気がついた。私は、現在における私の存在を疑っていない。過去は全て、かつて「今」だった。だから、過去も、同様にして未来も、全て現在として認識できるために、ペルソナの問題は持たない。私にとって「私」とは、キャラクターとか内面の話ではなく、空間を占める物質的な存在に近い。「今」における絶対的な信頼も、「私」という概念が崩れない一つの要因なのだろう。というか、これが最も大きいのではないか。「今」をあまりに信じているから、過去から現在について、私の変化は全て連続的に思える。変わったとは思う。しかし、それは連続的な変化でしかない。急激な変化もある。原因のわからぬ変化もある。しかし、かつて「今」でなかった過去など存在するはずがないと信じているから、全て連続的な変化であって、だから「私」という存在は崩れない。様々な場面で、様々な声色で、表情で話していた自分は、紛れもなく全て「私」だった。案外、私にとって「私」とは、非常に強力な信念だった。

そう思えば、文章も私の一つの形態なのだから、特に考えずに書き綴っていいのではないか。いや、そうは思えない。私はかなり言葉を信じているが、同じくらい疑っている。たまに、並べられた言葉が不意に意味を失って、死体となったような感覚に陥る。何の死体なのかはわからないが、そのとき、世界との関係が絶たれたような気がして、ものすごく恐怖を感じる。かつて生きていたはずだったそれらの、生きている時の姿を思い浮かべることはできない。ただ、正体不明の死体が、夥しい量規則的に並べられている。背後に何らかの意思さえ感じる。当たり前だ、言葉なのだから。意志があるのがいけないのか。現実で私の多面性が発揮される時、それは無意識下で行われる。しかし、文章は違う。私は明確な意思を持って、その文章にしたのだ。それが恥ずかしいのだ。私はその文章を消せたはずである。編集することの欺瞞を思って、無修正(!)で提示しても、結局全てを公開しようとしたという意思があることは否定できない。これは私の垢抜けに対する恥じらいにも通ずるところだ。永遠の思春期だと思っていたが、それだけではないのかもしれない。そこまでして意思を消したいのはどうしてだろうか。例えば、友人と近場を旅行したことがあって、その時私は、ここに行こうとか意思を伝えることはできたし、ためらった覚えはない。むしろ、意見を言わないのは良くないとすら思っている。こと「私」の場合だけ違うのだろうか。分人主義の本を読んでいて、印象に残った箇所があった。詳細は省くが、人は自分を矮小化されることを恐れ、他者による自己像を偽者だったと解釈する(意訳)。身に覚えがありすぎる。「私」は何よりも尊いのだろう。だからこそ、私は独りよがりになりたくない。これまでの経験から、一人で生きていくのは無理だ、と結論づけた。私は人とでなければ生きられない。私はというか、全員だろう。超人なんて幻想だ。

このように、私はいろいろ考えているんだぞ、と示すことは大切な気がする。それは、私の矮小化を防ぐ意味でのこと。将来、小説や詩が人に広く読まれるようになって、私の一連の小説・詩を好む人が多数発生した時、彼らに「私」に迫るものを用意しておきたい。私も身に覚えがあるが、好きな音楽屋とか漫画家のインタビューはあさってしまうものだ(実際は一人しかいないけれど。そもそも、私はそこまで人に対して方向が向いていない。いや、これも違う。人に対して関心はある。しかし、それは実在の人物か、もしくは”人間”ないし”社会”という一般化されたものであって、偶像にはない。私がアイドルにハマらなかったのも、それが原因だと考えられる)。作品を作者の代弁だとするのは間違っていると断言する。こんなことは当たり前すぎるが、改めて書かなければいけない。作品は作者を超える。逆に、一個人すら超えない作品が、いいものであるわけがない。書いている最中に、どこか遠くに行ってしまう感覚がって、そのとき頭の中は空っぽで、ただ指先だけが動いている。ただ私は媒介となって、しばらく経ってから、目の前に現れた詩や小説に驚く、そういったものでないといけない。しかし一方で、作品は作者から離れることはできない。それは当然である。作者を全く語らずして作品を語ることはできない。人は人に対して大きな興味を抱いていて、同時代の人間なら尚更だ。芸術は死後始まるというのは、作者に対する興味がいい感じに薄れてくるのが、作者の死後だからなのだろう。私が生きている以上、私に対して興味の矛先が向くのは当然のことで、インタビューなどで多くのことを語るのもいいが、私は自分が完全に編集権を握っている場を用意したい。自分の意図しない勘違いは生み出したくない。勘違いされるなら騙したい。私は誤解されるぐらいなら、鮮やかに欺きたい。

別に、私のことなんて誰にも伝わらないんだ!とかそんな感傷は持っていない。前は持っていた。持っていたから、最果タヒの詩に現れる孤独な強さに憧れていた。最果タヒくらい達観したかった。しかし、今は、受け入れてもいないし、絶望してもいない。ただ、その事実を眺めている。世界についていろいろ考えた。まず確かなのは、事実の存在なのだ、とした。それが一番信じれることだった(前の文章と矛盾しているとか、そんなこと言うな!)。自分のことを100%伝えられるなんて、そんなのありえない。逆も無理だ。しかし、それは絶望するものではない。なぜなら、私たちが生きているのは、そういう世界なのだから。それに、ある程度の人間が信奉している物理だって、その理論には多くの近似が使用されているが、ものすごく多岐に渡る成果を発揮している。100%ではないことは、絶望するに足りえない。この文章の最後に今日私が思いついた格言を言いたい。「個性とは凡庸である」私はこの格言を、いつか公の場で言って、感心されたい。私が自分の詩や小説(まだ書いていない!)が広く人に読まれることを疑っていないのは、自信家だからなのではなく、妄想狂だからである。広く読まれることには、実は怯えている。なんか、こう、じわじわ読まれていってほしい。最初は、既存の文壇から評価を受けず、高橋源一郎とか吉増剛造、最果タヒとか、その辺だけが評価していて、先に世界に進出して賛否両論巻き起こして…本当に恥ずかしくなってきた。ここで終わる。

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死の恐怖

現在は夜中の3:17。さっきまで寝ていたのだけど目が覚めてしまった。寝ている最中、頭の後ろ側が突然暖かくなって、おそらく血流の関係なんだろうけど、それで目が覚めた。何か重大な脳の病気の予兆なのではないかと怖くなって、死にたくないという気持ちが抑えられなくて、#7119に電話した。自分が不安症であることは自覚している。医者に診断されたわけではないけど、不安を抱くことは多くて、抱えている不安が根拠の薄い非合理的なものであるとは思っている。抱えるべきでない不安まで抱えてしまっていることはわかっている。しかし、論理ではないのだ。一度不安を抱えてしまったら、その不安が杞憂だと示す絶対的な確証を得るか、もしくは不安を忘れるまで時間をやり過ごすしかない。私が行くべきは脳の医者ではなくて、精神科なのだろう。確かに、今まで私はMRIを受けに行ったりしていたが、精神科へ行けばよかったのかも知れない。今日とか行ってみようか。今かかっている医者は、皮膚科、眼科と、肛門科(痔)である。皮膚科と肛門科は特に重大な病気というわけではない。先週、充血とめやにがとまらなくて眼科へ行ったら結膜炎だと診断され、処方された目薬を指している。医者にかかるまで不安がとれない。当たり前だ。不安は思考によって導かれるのだから、考えて不安が解消される訳がない。行動を起こすしかない。何かの本で、不安という感情は行動を起こすための感情なのだと、書いてあったような気がする。行動を起こすのは重要だけど、何もここまで不安を感じなくてもいいんだけどな、と思う。

思うに、死の恐怖は二種類ある。一つは、いずれ身体と精神は活動を停止し、モノになった後、肉体が消却され無になる、という将来にある死の恐怖。もう一つは、もっと動物的で形を持った現在にある死の恐怖。私が抱いているのは後者だ。逆に、前者の将来的に無になることの恐怖は全く感じない。たびたび思うことなのだが、私は「未来」という概念に対する実感が薄い。これまでの経験から未来に起こることを演繹することはできるし、実際、私も数年後という言葉は使っているのだけど、未来が存在すると信じているわけではない。いや、信じている。そうではなくて、なんて言ったらいいのだろうか。未来のことを考えることができない。現在と未来の比重は、誰しも現在の方が大きいだろうが、私はその程度が甚だしいように思う。現在のことを考えすぎて、未来のことを考える余裕が残っていないというか。だから死の恐怖も、将来的にあなたは無になると言われたところで、全く考えることも実感することもできないから、微塵も恐怖を感じない。私が抱いている恐怖は、具体的な病気や突然死、交通事故に対する恐怖である。背中が、こめかみが痛むたびに、何か重大な脳の病気なのではないかと怯え、無症状であれば、癌が手遅れなぐらい進行していたらどうしようと怖くなり、信号を待つ時は、車が突っ込んでくるかも知れないから、なるべく道の奥の方に寄る。本当に、疲れる。病院へ行った方がいいのだろう。なぜ行きたくないかというと、自分でもこの不安が実体のないものだと気づいていて、もし病院へ行ってしまったら、笑われるかもしれないし、また、病院へ行くことで、荒唐無稽な不安が形となって現れるような気がするからである。実体のない不合理なものと思っている不安感が形になってしまったら、なんか、よくない気がする。単純に病院に行くのが手間、というのもある。一時的に途方も無い量の死の恐怖が押し寄せて、どうしようもなくなったときがある。そのとき、私は大学で授業を受けていた。黒板の文字をノートに書き写しているとき、ふと、死にたくないと思った。何の脈絡もなかった。ただ、不意に、死にたくない、そう思った。そこから、死にたくない、という言葉がとまらなくなった。頭の中で、死にたくない、という言葉が溢れ出て止まらない。反復し続けるうちに、意味はなくなって、ただ”死にたくない”という記号が頭の中を埋め尽くしていく。段々息苦しくなって、他に何も考えられなくなって、どうしようもなくなって、教室を出て、うずくまった。

月ノ美兎も死の恐怖を感じる人間(バーチャルYouTuber)なのだけど、彼女の場合は、将来的な死の恐怖であって、私とは違う。別に視聴者の分際で彼女のことをわかった気になっているとか、そういうことではないが、配信で言っている限りは、あまり食生活も気にしているようには思えない。”今”に対する死の恐怖を抱いている人間が食生活を気にしないことはないと思うから、私の抱いている恐怖と彼女の抱く恐怖はまた違うのだろう。死の恐怖を公言している有名人をあまり知らなくて(あまりに自明すぎて皆言わないのだろう)、彼女が仲間だと思っていたから、できることなら同じ類の死の恐怖を抱いていて欲しかった。そしたら寂しくなかった。探せばいるのだろうけど、知っている人間であるのが重要で、ネットで検索して同種の恐怖を抱いている人間を見つけたところで、それは血の通っていないただの情報になってしまう。いや、動画を見ただけで知った気になんてなっていないのだけど、しかし、知っている感というのが非常に重要なのだ。誰かいないかな。念の為言っておくが、私はガチ恋ではない。そもそも、推しというのもできたことがない。他人に対する興味が薄いわけではない。現実に応対した人間には慈愛の精神が発生するが、物理的に距離の遠い人間を、人間として扱えないのだと思う。完全にモノ化してしまっているわけではないが、対して興味を持てない。知っている人間が炎上していたら胸が締め付けられるが、それまでである。最近は、そのことを自覚して、インターネットで人と交流しようとするのをやめた。昔は、現実で人付き合いができないなら、インターネットで人との繋がりを作ればいいと思って色々試していたが、ことごとく失敗した。黒歴史も作った。結局、オフライン上でしか人間関係を構築することはできなかった。同じ理由から、動画のコメント欄も見ないし、他人がこの動画のことをなんと言っているかもあまり興味がない。配信を見る時も、コメント欄は閉じている。一緒に見たいとは思わない。私の好きなものを、他人が好きになる必要はないし、共有すべきこともない。

死の恐怖は不安症の一種であって、私の根源にあるのは、死に対する恐怖ではなく、不安である。それは、芥川龍之介の言ったぼんやりとした不安ではなく、輪郭のはっきりとしたあらゆるものに対する具体的な不安である。今抱いている恐怖は失明に対する恐怖である。死の恐怖と同じくらい、もしかすると、それより大きいかも知れない。日に日に視力が下がっていくのを感じている。目は一生もので、視力は下がってしまったらもう上がらないから、そのことが本当に悲しくて、怖い。失ってしまったものは取り戻せない。ずっと後悔している。もっと気をつければよかったと思っている。一応気をつけているはずだけど、それも完璧ではなくて、現在私は悪循環にハマっている。死、失明に対する恐怖を抱えていて、それに対処するには行動するしかないと思っているから、食生活・運動・睡眠など気をつけようとするのだけど、不安を抱えるだけで疲れてしまって、行動につながらない。いや、実際に行動に移せているものもある。睡眠は7、8時間は寝ているし、運動も、定期的に川沿いを走ったりしている。問題は食生活であって、私の家には調味料がない。それは考えるのに疲れたからとか、節約のためでもあるし、特別に思われたいとかもそうなのかもしれない。栄養があって、安くて、たくさん量があるような、そんなご飯がいいのだけど、そのためには自炊をしなくてはいけなくて、毎食作る気力がなくて、自炊しないときは、結局、コンビニなどで味の濃ゆいものを食べることになる。私の抱えている不安感は慢性的なものではない。日々のある瞬間にひょっこり姿を表して、しばらくすると跡形もなく消え去ってしまう。時間が過ぎれば消え去ることを知っているから、だから対処しようとしないのだろうか。いや、しているけれど、徹底していない。私の怠惰もある。そう、こんな風に、この場で、私は一方的に書ける立場にあるから、この文章上で私は私を演出しているのだけど、私は怠惰なのだ。怠惰ってわけではないか。でも、すべき行動を全て起こせているかと言われれば、それはないし、その頑張りの程度も、もっと頑張れたのではないか、と思われるくらいだと思う。たまに思うが、私の生活が全て監視カメラとかで録画されれば、私は自分がどれくらい苦しんでよくて、辛かったと言えるのかわかるのに。誰も見ていないし、日々の生活でほとんど人と話さないから、自分の話す感情や過去の根拠が全て私にしかなくて、私によって加えられた演出に対して過敏になっている。誠実にあろうとするだけましか。過去は変えられないから、今は誠実でありたいと思っている。私は決して聖人ではないし、聖人にはなりたくもないが、誠実な人間でありたい。それは過去の後悔からだ。過去を人に言う勇気はない。

不安症は考えすぎにもつながる。今感じている不安は、隣人に対する不安である。今、この文章はパソコンで打っているのだけど、タイピングの音が聞こえていないか、不安だ。うちの家の壁はおどろくほど薄い。隣人の笑い声は、壁の存在がないくらい聞こえるし、動画とか音楽とか流していないと、隣人が椅子から立ち上がった音とか、ドアを開ける音もする。タイピングの音が聞こえてしまうのではないかという不安は、全くの妄想であるというわけではない。そもそも、今、私は「こんなに不安を感じています、考えすぎてしまいます、繊細な人間です、私は」みたいな風に装っているが、遠くから友人が来て家に泊まりに来たとき、普通にボードゲームをして楽しんだ。少し声が大きい時は諌めたが、その時はボードゲームが楽しくて、多少不安もあったけれど、そこまで隣人のことは考えなかった。後日、一階の掲示板に「うるさくしないように」という張り紙が貼られていた。そうだ、私は、別に不安症を感じてなどいないのかもしれない、考えすぎてなどいないのかもしれない、人のことを考えてなどいないのかもしれない… それはないと思うが。このように書いたら、客観的に自分のことを考えていますというアピールになるかも知れないと思って、書いた。

そういうどうしようもない類の不安に襲われているから、建設的な不安がやってこない。二週間後に英語の試験があるのだけど、その勉強が進んでいない。英語の試験が終われば学校が始まって、院試のための勉強をしなくてはいけない。来年度の前期は院試の勉強に時間を取られて、他になにもできなくなってしまうのだろう。院試が終わったら、研究生活が始まる。それまでにわかっていない箇所は再度学び直しをしたいし、研究生活が滞りなく進むように、研究生活でダウンしてまた留年しないように、研究テーマを今のうちから探しておきたいが、そこにも手が回っていない。研究生活が始まれば一日中研究漬けで、すぐ後に就活があって、あっという間に院を卒業することになるのだろう。そうなると、小説家、詩人になる夢は叶わない。だから私は、小説、詩を読んで、小説、詩を書かなければいけない。時間がない、のに、全く別のことに心が囚われている。本当に、勘弁してほしい。勘弁してほしいと思うのは、自分がコントロール可能だという神話に囚われているからか。もしかすると、ここらで私は妥協しなければいけないのか。それは、この世を知った気でいるだけで、実際はもっとやりようがあるのか。何にもなってない。結果が欲しい。簡単な結果を望みすぎた。結果を望むだけ望んで、行動が伴ってなくて、だから結果が出ないのは当たり前なのに。つら。

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初めに

個人HPを作った。noteとかXなど、持っていたSNSのアカウントは全て消した。現在私が公にしているのは、このHPにある文章のみである。なぜ個人HPを作ったのかというと、自由が欲しかった。私の発言を政治的な文脈に汲み取られることなく、誰かの発言の原作になることもなく、ただ無機質に発信する場が欲しかった。私はまだ何者でもない。私は詩を書いている。詩を書いて、日本現代詩人会とか、ココア共和国に投稿している。ここ3ヶ月くらい大学の勉強を優先しようと思って、どうせ今書いたところでろくなものができないと思って、書くのをやめていたのだけど、最近また書き始めた。詩。人に認められることがそれくらいしかない。

本当は、ある。世間的に見れば、私の通っている大学はいわゆる高学歴であるが、結局それも空虚である。中身のないただのハリボテである。世間はそれに気づいていながらも、就職では経済的な理由で一次審査の時に使われる。仮に一次審査に合格したところで、面接をすれば化けの皮が剥がれるだけだ。本来ならば、持っている学歴を中身のあるものにできたはずだった。勉強しないことを選んだのは他でもない私自身で、全て私の意志かと言われればそうではないけど(完全な自由意志なんてないだろうし)、何もしなかった過去の原因のある部分を占めるのが私であるのは間違い無くて、その大きさは鯨とか大仏よりも大きいと思う。今、無理に文学っぽくしようとして比喩を使ってみたが、読み返しても何も感動しない。不自然さが前面に出ている。恥ずかしい。

なぜ私は書くのか。書く理由はいらないか。なぜ私は書いたものを公開するのか。それは、一人で生きることはできないからだ。三島由紀夫があるインタビューで、「人は自分のために生きれるほど強くない」と言っているのを見た。本当にその通りだと思う。一人でいて、生きる理由なんて見つかるはずがない。私は見つけることができなかった。見つけることができなかった理由を探すのは簡単だ。ニーチェの言う超人も、SNSにかまけることなく、己と対峙し続けていれば、なれたのかもしれない。流石に時間が短いかな。しかし、やっぱり私は一人で生きることは無理だと思う。ずっと一人でいると、全てがわからなくなってくる。一人になって、なぜこんなことになったのか理解しようと、過去と記憶を解体していって、余計わからなくなって、答えがあるかもしれないと思って縋りついた哲学は難し過ぎて、なんとか理解できたところがあっても、結局哲学は無限に問い続ける営みだったから、私の求めている答えには一生辿りつかない。私は、生きたい。生きるために、ゆるがない信念が欲しくて、生きる意味が欲しくて、世俗的で低次でもいいから目標が欲しかった。哲学はその信念を問う学問だった。唯一、ショーペンハウアーとかヴィトゲンシュタインとか、別に本腰を入れて読んだわけではないけど、きっぱり言い切っている彼らの哲学は惹かれるものがあった。哲学としては、彼らの哲学は、存在とか認知とか、世界の基礎にあるものを足場にしてから取り組むようなものとは違うのかも知れない(私がそこまで彼らの哲学を学んでいなから、曲解しているのかもしれない)けど、私はそれらを疑いたくない。一番幸福だった時は小学生の頃だった。当時、私は何も考えていなかった。考えないことの幸福を、私は既に知っている。もう大人(年齢的に)だし、次はそういった彼らを支えなければいけないから、社会が成り立つように、今度は私が考えなければいけなくて、そのことに特段悲観的になっているわけではないけど、今哲学が取り組んでいるような世界の基礎となっていることは無条件に信じたい。それらを疑う余裕なんてない。無理だ。ただ、きっと、こんなことを今のSNSで言ったら、強者という加害者みたいな話に回収されてしまうんだろうな。「思考をすることができるのは、社会に必要な仕事を他の人が負っているからだ」とか、その逆に、「思考をしなくてもいいのは、他の人が考えてくれているからだ」みたいな。もちろん、それは認識しているし、仮にその人が面前に現れたら私は感謝を伝える。けれど、そんなことを言い出したらキリがない。この世界のどこまでを疑うべきか、という問題も同じだけれど、ある程度で妥協しないと、人は生きることができない。強者は加害者である、というのは、流石にいき過ぎていると思う。強者は強者のまま幸せになれる。私は強者も弱者も多数者も少数者も、全員そのまま幸せになってほしい。心からそう思っている。私が多数者で、強者だからだろうか。違うと思うけどな。

私は日記を書いている。日記を書き始めた当初は、これを書いてしまったら、もう詩も何も思い浮かばなくなるのではないか、とか怯えていたが、杞憂だった。むしろ、日記によって吐き出すことで、形になるものを残すことで、心が軽くなった。しかし、しばらく書き続けていたが、書いても書いても日々が停滞している感覚を取り除くことはできなかった。日記を書き始めたのは、前進している感覚が欲しかったからだ。何もならない日々が怖くて、何か形に残したくて、日記を書いた。しかし、日記を書いても、焦燥感も不安感も根本から改善されることはなかった。それはやはり、一人で生きていくことはできないからなんだと思う(違うだろうか)。誰かに見られないとやっていけない。最果タヒの詩をよく読んでいて、彼女のインタビューだかエッセイだかで、「誰に見られようとか思わず書かれた、インターネットの片隅にある日記みたいなものが好き(超意訳)」と言っているのを見た。私は、人の期待に過度に応えようとする傾向があって(ないかも)、よく読んでいた詩人の最果タヒの言葉なら尚更だが、私は、これを人に見られたくて書いている。人に見られたくて仕方がない。日記を書いている時、確かに心は休まるのだけど、結局、なんにもなっていないではないか、と落胆し、強烈な焦燥感に襲われる。いや、何かにはなっている。自分の心の、頭の整理になっているし、書いてから気づくことというのは案外多い。しかし、進んでいる感覚が全くしない。日記というのは足場を固める行為であって、前に進むものではないのだと気づいた。足場を固めるのは大事なことだと思うけど、生きている感じがしない。私は前に進みたい。ずっと同じ景色を見ている気がする。高校卒業してから変わっているのだろうか? 高校を卒業してから4年が経った。世間から見れば、私はまだ若い。若くて、可能性があって、まだ存分にやり直せるのだろう。しかし、そんな冷静な若者がどこにいる? 若者は全員バカだ。将来のことなんて考えれるわけがなくて、過去に囚われて未来はなくて今が全てだから、ずっと失ったものばかり数えている。なれたかも知れない自己像に浸っている。ひたすら妄想を繰り返している。

それならば、なぜさっさと個人HPを作らなかったのか、と思うかも知れない。思わないか。そもそも、ここまで私の文章を読んでくれる人が何人いると言うのだろうか。私は、将来、何になっているのだろうか。若者である私は本当にバカなので、現実的な未来は全く考えることができない。クソみたいに輝かしい栄光を妄想している。今書いている小説も、これを世に出せばノーベル文学賞をとれると思っている。あまりに馬鹿すぎるか。世の若者はここまで愚かではないだろう。若者に失礼だ。しかし、今書いていて、この小説が良くないなんて本当に思えない。現在刊行されている小説を見ても、私の小説はよくないのではないかという不安は全くやってこない。あまりに見る目がないから、そんなことを思うのだろうか。考えてしまったら、すぐにその小説の出来の悪さに気づいてしまうから、考えないようにしているだけか。それはありそうだ。文章はあまり良くないから、研鑽を積まなければいけなくて、この日記みたいなエッセイみたいな思想みたいな私小説みたいなものが、つまりこの演技が、文を書く練習になればいいと思っているけれど、中身はそこまで劣っていないし、むしろ、何か今まで人類が辿り着けなかったものを掴みかかっているような気がしてならない。自惚れすぎだろうか。あまりに長く妄想に浸っていたから、わからなくなっているのか。Xでもnoteでも、私の心情を綴ることはできた。しかし、私は、自分の城が欲しかった。noteとかXに書いてしまったら、noteとかXの文脈を踏まえて解釈されるだろう。序盤に書いたが、私は、他の文脈から切り離したかった。この世に独立したものは存在しないと思っているので、切り離すと言っても、ある程度までだけれど、できる限り切り離したかった。あと、panpanyaのHPを見て、これいいな、と思ったのもある。自分だけの城を持っている人に憧れた。世間から遊離しているその姿がかっこいいと思った。

こうして文章を世間に公開する時、最も大きな問題となるのは、演出の問題である。今、こうして私の心情を語っているわけだけれども、私には語っていないことがたくさんある。過去にした良くなかったこと、恥ずべきことなど。今サラッとまとめて書いてしまっているが、それらは一万字とかそれ以上かけて書かなければいけないものであって、私という一人の人間を語る上では絶対に欠かせないものなのだけれど、私は、ここで何も書かなかった。もちろん、この文章は私を説明するものではないが、ここまで心情を書いているならば、少しぐらいは書いてもいいはずだった。私は、ここで演技をしている。というか、人は他人に対して演技をする生き物である。それは日記でも変わらない。日記は他でもない自分のために書いているはずなのに、そこでも演技は行われる。日記は、その日にあった出来事のうちから、自分が信じたいものだけを取り出して、私を再構成する装置である。私は恥ずかしいことに、この演技をしているのは自分だけだと思っていた。しかし、「「私」をつくる:安藤宏」という本の中で、日記を書いているときも演技をしているのだと、サラッと書かれてあった。これを見つけたとき、私はとても恥ずかしかった。一度演技をしている自覚が芽生えれば、どれが本当の自分だとわからなくなるだろう。過去の罪や引け目を隠して、私の中の見せたいものだけを見せる自分に嫌気がさすだろう。そのように考えてしまったら、私は何も書けなくなる。だから、もしこれを読んでくれている人がいるならば、これは私の演技なのだと、知っていてほしい。全て演技だと言っているのではない。演出をしているということを言いたい。本当の自分とか言い出したら訳がわからなくなるから言わないが、これを本当の私だと思わないでほしいし、嘘だとも思わないでほしい。適度な距離を保ってほしい。そう、適度な距離。既存のプラットフォームで投稿すると、適度な距離を築くことができない。これは私の城である。お金払ってよかった。サーバーを借りている会社が倒産したら、この文章はどうなるんだろう。

また、書きたいことがあれば自由に書こうと思う。人に見られるといいな! 結局、私は何がしたいんだろうか。これが見られたところで、別にコメント欄を開設しているわけではないし(自分で消している)、エッセイの依頼があったといって断るだろう。何様だろうか。依頼が来るとか思っている。でも、私はエッセイを書きたくなかった。自分の感情とか思考は煮詰めて小説や詩で発散するものだと思っていた。私はそれに耐えることができなかった。こうして自分の心情を雑文に表してしまったら、詩も小説も書けなくなるのではないか。日記みたいに、その心配は杞憂に終わってほしい。私は日頃から考えることが多くて(皆考えている)、話す相手もいないから、これを書くぐらいでちょうどいいとか、そうだったら嬉しい。まだこれについては考えようと思えば考えることはできる。しかし、考えても無駄なのだ。私は愚かなので、考えても結局答えは見つからない。私は考えるという営みを、できるだけ早く解にたどり着くことだと思っている。それが違うのか。果たして私は、無限の問いに耐えられるのだろうか。行動しなければ前に進まない。今度は進んでほしい。誰かに見られたい。誰もいない。誰かはいるのか。しかし、私は何が欲しかったんだっけ。これも演出なんだろうけど、本物だと信じたい。

これがなんかになればいいな。

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